ロシアによる支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
「アルメニアの歴史」の記事における「ロシアによる支配」の解説
詳細は「ロシア領アルメニア(英語版)」を参照 一度はイスラエル・オリの救援要請を断ったロシア帝国であったが、皇帝エカチェリーナ2世の時代に入ると、その南下政策は本格化した。1779年にはペルシアで新たにガージャール朝が開かれ、その軍はアルメニアを越えて東グルジアのチフリスにまで北上した。助けを求めてきたカルトリ=カヘティ王国をロシアは保護国化し、両大国による覇権争いは二度にわたるロシア・ペルシア戦争へと発展した。結果、ガージャール朝は二度の敗北を喫し、1827年のトルコマーンチャーイ条約によってロシアの領域はアラクス川北岸まで拡張した。その後にも、1877年からの対オスマン戦争にもロシアは勝利し、サン・ステファノ条約によってカルス州(ロシア語版)もロシア領アルメニアへと割譲された(この戦争では、多くのアルメニア人義勇兵もロシア側に加わっていた)。 当初、アルメニア人たちは念願であったキリスト教世界への復帰に歓喜し、姓をロシア風に変える者も多くいた。オスマンやペルシアからは万人単位でアルメニア人がロシア領へ流入し、チフリスやバクーに拡散した者の中には商工業で財を成す者も多く現われた。1870年代にはチフリスの商人の3分の2がアルメニア人(ロシア語版)で、6行の銀行のうち4行はアルメニア人の資本であった。バクー油田の石油会社も、その半数がアルメニア人(英語版)の経営によるものであった。また、ミハイル・ロリス=メリコフのように、帝国内相としてロシアの政治に深く関わるようなアルメニア人も、例外的ながら現われた。 反面、故地アルメニアのアルメニア人はその7割が農民であり、カフカースで反故にされた農奴解放令への反発から、同時期のアルメニアでは農民反乱が続発した。さらに、開明的な皇帝アレクサンドル2世が1882年に暗殺されると、ロシアの政策は急激に保守反動化した。アルメニアでも、学校教育ではロシア語、ロシア史、ロシア地理が必修化され、教会学校の建設は禁じられた(時のカフカース知事(ロシア語版)であったグリゴリー・ゴリツィン(ロシア語版)は、「もうじきカフカースには、博物館の標本以外には、アルメニア人はいなくなるであろう」と語ったという)。こうして、その90年の支配の間に、アルメニア人のロシアへの反感は次第に高まっていった。
※この「ロシアによる支配」の解説は、「アルメニアの歴史」の解説の一部です。
「ロシアによる支配」を含む「アルメニアの歴史」の記事については、「アルメニアの歴史」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からロシアによる支配を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からロシアによる支配を検索
- ロシアによる支配のページへのリンク