レッド・パワーによるインディアン運動
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「ネイティブ・アメリカン」の記事における「レッド・パワーによるインディアン運動」の解説
かつて合衆国連邦とインディアンとの間では保留地を始め、371に上る権利を巡る条約が結ばれてきたが、これはまったくないがしろにされ続けてきた。そもそも1879年にポンカ族のスタンディング・ベアー(Standing Bear)酋長と、オマハ族のスゼットとスーザンのラ・フレスカ姉妹が、最高裁で部族強制移住の違法判決を勝ち取るまで、インディアンは人間として認められていなかった。この判決で初めて、最高裁は「インディアンは人間である」との文言を判決文に書き添えてこれを認めたのである。この百年余り、インディアンの差別廃止と自治権および権利回復を果たすため、さまざまな個人・団体が政治活動を行い、これを是正させようとしてきた。 最初期の組織だった活動では、1911年にオナイダ族の環境保護運動家ローラ・コーネリアス(Laura Cornelius)や、オマハ族のラ・フレスカ姉妹といった、東部で欧米式の教育を受けたエリートたちが起こした「アメリカ・インディアン協会」がある。彼女らは「国際的インディアンの日(ナショナル・インディアン・デー)」を作り、10月12日の「コロンブス・デー(コロンブスのアメリカ「発見」の記念日)」に対抗して、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」というスローガンを掲げた。 1944年には、第二次大戦におけるインディアンの貢献下の影響力をバックに、ワシントンD.C.に本部を持つ「アメリカ・インディアン国民会議団(NCAI))」が結成され、圧力団体として各部族から代表者を送り込み、「大声で吼えまくる赤い番犬」と呼ばれた。 彼らは伝統衣装ではなく洋装し、欧米文化の中から運動したため、主流のアメリカ人からも支持を集めた。しかし、若い世代のインディアンからは「白人キリスト教化されたハイアワサ、ポカホンタス、トント」と揶揄され、支持共感を得られなかった。 これを踏まえ、1961年にシカゴで、スー族のヴァイン・デロリア(Vine Deloria, Jr.)、ウォーカーリバー・パイユート族のメル・トム(Melvin Thom)、ポンカ族のクライド・ウォーリアー(Clyde Warrior)、ビル・ペンソニュー(William Pensoneau)、ナバホ・カイオワ族のジョン・ベリンドといった、大学教育を受けた若い世代を中心に、「全米インディアン若者会議(NIYC/The National Indian Youth Council)」が結成された。彼らは「若い世代は声を上げるべきだ」と唱え、「インディアン人権宣言」を起草し発表した。これは「AIM」の前身ともいうべき組織であり、指導者達はのちにAIMに合流した。キング牧師はインディアンの団体NIYCに声をかけ、団体は公民権運動の一部に関わっていくようになった。 また1960年代から1970年代に掛けて、黒人たちによる公民権運動の盛り上がり(ブラック・パワー)があり、これに呼応して同時期に興ったこれらのインディアンの権利回復要求運動は「レッド・パワー運動」と呼ばれ、注目を集めた。黒人とインディアンの運動の方向性の違いを表すものとして、シビル・マーチに参加することについては、インディアンの団体は消極的、否定的だった点があげられる。 全米インディアン若者会議は、のちに下記の北東部漁業権運動を率い、「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」の創設者となるアシニボイン族のハンク・アダムス(Hank Adams)を輩出。とくに当時適用の決まった、インディアンに対する狩猟・漁業の権利剥奪法に抗議し、ワシントン州のあちこちで「違法に」魚を獲ってみせる「フィッシュ・イン(fish-ins)」抗議行動で注目された。
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