ルート選定の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 23:03 UTC 版)
当路線が現在のルートになるまでは紆余曲折があった。 国が第九次道路整備五ヵ年計画中に、当時7,600 kmだった全国の幹線道路に新たに2,400 kmを法制化する「一万キロ構想」を打ち出して以降全国で要望が上がる中、岩手県もいくつかの路線を要望することにした。その中の1つ北東北横断自動車道(現在の釜石道)を要望するにあたって、当初岩手県は釜石 - 遠野 - 盛岡と結ぶ県央ルートと遠野から分岐して北上へと結ぶ県南ルートの2本立ての「Y字型」を想定していた(右図)。しかし、全国の要望はかなり多く過当競争になっており、これが採択されるのは極めて困難として後にルートを一本化することになった。 一本化の方針を打ち出してから東北道への接続点をどこにするかで「盛岡寄り」「花巻地区」「北上地区」の陳情がそれぞれ上がったが、県は東北自動車道北上江釣子ICなどから入る車のうち半数が県内のICから降りていること、釜石・気仙広域圏に向かう自動車貨物の3分の2が盛岡広域圏からであり逆方向も同じような数値であること、このような盛岡圏との人的物的交流の結びつきの強さは21世紀も続くと見られることなどから、結節点を盛岡寄りの紫波町(通称:紫波ルート)とする案を国に要望すると決定。遠野・北上間は並行する国道107号と国道283号の高規格化で対応するとした。 しかし花巻・北上・気仙地区の落胆は大きく、特に北上ルートを強く要望していた県南地域はこれに激しく反発。当時岩手2区(小選挙区の3区・4区にあたる)の与党議員も「国家的レベルの問題なのに県から何の相談も意見聴取の機会もなかった」(小沢一郎)、「県南地区の住民のことを考えると到底納得できない」(志賀節)、「本来採るべき手順を越えた決定で県民の意思が反映されているか疑問」(椎名素夫)と揃って強い反対の意向を表明。 こうした中、県議会でも3ルートの請願書のうち紫波ルートにあたる「盛岡圏ルート」の請願が採択され、一応形の上では県の意見は一本化されたが、県南地域の反発はおさまらず、さらに、元々このルートには広域性や建設費の観点から懐疑的だった建設省(現在の国土交通省)は、県の意見は参考にするとしつつも独自のルートを打ち出すとし、県内の世論が依然として分裂状態だったこともあり、結局県の要望は突き返された。通常どんな陳情でも一応は受理される中で陳情自体が突っぱねられたのは極めて異例であり、「紫波、北上両ルートについて十分話し合い、納得した上で一本化した要望書を持ってくるように念押ししたにもかかわらず、このような要望書では責任を持って推進できない」「そもそも未調整の案件を要望すること自体、ルート選定以前の問題で非常識極まりない」 という強い批判の言葉も飛び出した。この後、前述の3名に玉沢徳一郎・工藤巌を加えた5人の県選出議員が建設省に「紫波ルートは県民の意見を反映していない」と意見書を提出したが、これは建設省が議員に頼んで提出させたとも言われている。 その建設省の方は「岩手県だけでなく秋田県との関係も考慮しなければならない」「すでに縦の線(東北道)があるのだから必ずしも横(秋田道)に結ばなければならないというわけでもないだろう」「国家的見地から新幹線・道路・空港の相まった総合効果を考えねばならない」などとして花巻ルートを示唆。最終的には岩手県の意思もある程度汲んだ形となる花巻北部に接続する案が四全総で認可され、後に国幹道に昇格した。北上ルートに比べて釜石 / 気仙広域圏と南東北 / 首都圏との移動は相対的に不便にはなるが、それに関しては同じく四全総で認可された三陸縦貫自動車道に担わせる意図であった。
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