ラザフォード原子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 22:39 UTC 版)
「陽子#歴史」も参照 1920年、ラザフォードは王立協会において"Nuclear Constitution of Atoms"(原子の核構造)と題する原子核について知られていることをまとめたものをBakerian講義で行った:23。1920年までに原子核内の電子の存在は広く考えられていた。原子核は原子質量に等しい数の水素原子核で構成されていると思われていた。しかし、各水素には+1の電荷があるため核が正しい総電荷になるために、それぞれ電荷-1の「内部電子」が少量必要であった。陽子の質量は電子の質量の約1800倍であるため、この計算では電子の質量は付随的である。このような模型は重い核からのアルファ粒子の散乱および同定された多くの同位体の電荷と質量と一致していた。陽子-電子模型には他の動機もあった。当時のラザフォードが述べたように「我々は原子核には正電荷を帯びた物体だけでなく電子も含まれていると信じる強い理由がある・・・」、すなわち、ベータ線が原子核から放出された電子であることが知られていた:21。 その講演において、新たな粒子の存在を推測した。アルファ粒子は非常に安定していることが知られており、核内でその同一性を保持すると考えられた。アルファ粒子は4つの陽子と2つの密接に結合した電子で構成され+2の電荷と質量4になると推定された。1919年の論文において、ラザフォードは3つの陽子と密接に結合した電子で構成されると解釈されるX++と書かれる質量3の新たな二重荷電粒子の明白な発見を報告した。この結果は2つの新たな粒子が存在する可能性が高いことをラザフォードに示唆した。2つのうち1つは電子が密接に結合した陽子で、もう1つは密接に結合する電子である。X++粒子は後に質量4を持ち単なる低エネルギーのアルファ粒子と決定された:25。それにもかかわらず、ラザフォードは質量1の中性粒子である中性子と質量2で+1荷電粒子である重陽子の存在を推測していた。後者は1931年にハロルド・ユーリーにより発見された重水素の核である。仮定の中性粒子の質量は陽子の質量とほとんど異ならないとされた。ラザフォードはそのような電荷のない粒子はそのとき使える技術では検出が難しいであろうと判断した。 1921年までにラザフォードは非荷電粒子を中性子(neutron)と命名したが、これとほぼ同時期に陽子(proton)という単語が水素原子核を表すのに採用された。neutronという語は、ラテン語の語根neutralとギリシア語の末尾 -on(electronやprotonの模倣)から構築されたようである。ただし、原子に関連するneutronという言葉は、すでに1899年に文献にある。 ラザフォードとチャドウィックは、ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所で中性子を捜索する実験プログラムをすぐに開始した:27。実験は1920年代を通じて継続されたが成功しなかった。 ラザフォードの推測は広く受け入れられなかった。ジョージ・ガモフはコペンハーゲンの理論物理学研究所にいた1931年に著した教科書Constitution of Atomic Nuclei and Radioactivityにおいて中性子について言及していない。キュリー夫妻(イレーヌ・ジョリオ=キュリーとフレデリック・ジョリオ)は、1932年にパリで行い中性子につながることになる測定を行ったときに、この推測について知らなかった。
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