ヨーロッパ・ユーラシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:48 UTC 版)
キリスト教世界では、審判の日に復活するためには、神に向かって体が上昇していけるよう東向きに埋葬されている必要があると考えられている。したがって、損傷のない遺体を切断し、復活の可能性を奪う死後処刑は刑罰として有効な方法の一つであったと言える。 ローマ教皇フォルモススの遺体は死後にステファヌス6世によって掘り起こされ、897年に死体裁判にかけられた。有罪判決ののちに遺体は指を3本切断され、テヴェレ川に投げ込まれた。 イングランド王ハロルド1世は1040年に死亡したのち、腹違いの兄弟であるハーデクヌーズに墓から掘り起こされ、沼に投げ込まれた。 中世イングランドのシモン=ド=モンフォールは1265年にイーヴシャムの戦いで戦死したが、その遺体はヘンリー3世によって首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。 イングランドの神学者ジョン・ウィクリフは死後45年たってから異端の罪で墓を暴かれ、火刑に処されて遺体が川に投じられた。 ワラキア公ヴラド・ツェペシュは戦死したのちにオスマン帝国軍によって斬首された。 イングランドで宗教改革を行ったマルチン・ブツァーはメアリー1世の命令で墓を暴かれ、ケンブリッジのマーケット・スクエアで火刑に処された。 ガウリー伯ジョン・ルースベンと弟のアレキサンダー・ルースベンはガウリー陰謀事件の失敗によって絞首刑及び四つ裂きの刑に処されたが、その首はエディンバラで串刺しにされ、また手足はパースの各所に晒された。 ユトレヒト書記官Gilles van Ledenberg(英語版)は、オルデンバルネフェルト(英語版)派としてオラニエ公マウリッツにより捕らえられた際、裁かれる前に首を切って自殺した。しかし裁判は続行され、翌年に死体が墓から掘り出されて、絞首台で晒された。 ピューリタン革命後、24人のレジサイド(イングランド王チャールズ1世の処刑に関わったもの)たちはチャールズ2世による王政復古の前に死亡していたが、議会は免責・大赦法の例外であり大逆罪にあたるとして、主要なレジサイドだった裁判長ジョン・ブラッドショー、護国卿オリバー・クロムウェル、ヘンリー・アイアトン、トマス・プライドの4人に死後処刑の刑を言い渡した。遺体は掘り起こされ、過度に腐敗していたトマス・プライドを除く3人の遺体はタイバーンの刑場に吊るされて、のちに斬首された。体は近くの穴に捨てられたが、斬り落とされた首は最終的にウェストミンスター宮殿の端に晒された。結局クロムウェルの首(英語版)が埋葬されたのは1960年のことであった。 イギリスの海賊エドワード・ティーチ(黒髭)はイギリス海軍第一大尉ロバート・メイナードの手下に殺され、検死ののちに斬り取られた首をバージニアへと戻るメイナードの船のマストに括り付けられた。メイナードがハンプトンに移るにあたって、ティーチの首はハンプトン川の河口に他の海賊の見せしめのために晒された。 アメリカ独立戦争時の軍人で医者のジョセフ・ウォーレンはバンカーヒルの戦いで戦死したのち、服を引きちぎられ、見分けがつかなくなるまで銃剣で突き刺されたのちに浅い溝にねじ込まれた。数日後、イギリスの大尉ジェームズ・ドリューはウォーレンの遺体を掘り起こした。その際、目撃者の証言によれば、遺体は踏みにじられ、殴打され、斬首されるなどといった辱めを受けたという。 帝政ロシアの聖職者グリゴリー・ラスプーチンの遺体は1917年に暴徒によって掘り起こされ、ガソリンで焼却された。 ロシアの軍人ラーヴル・コルニーロフの遺体は1918年にボルシェビキの暴徒によって掘り起こされて、殴打され、踏みにじられた後に焼却された。 プロイセン王国の軍人ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの遺体は1945年に彼のマウソレウムに乱入したソビエト軍によって掘り起こされ、伝えられるところによれば、彼の頭蓋骨でフットボールが行われたという。1989年に冒涜された遺体は司祭によってポーランド南西部の教会のカタコンベに埋葬された。
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