ユリのフッガー家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 22:20 UTC 版)
詳細は「ユリのフッガー家(ドイツ語版)」を参照 1473年、神聖ローマ皇帝よりユリの紋章を授与されている。1485年銀の先買権を手に入れ莫大な利益を獲得する。 1490年、銀山のあるティロルの領主がマクシミリアン1世となった。これをきっかけにヤーコプは神聖ローマ皇帝と結びついた。1494年8月18日、ヤーコプの息子であるウルリヒ(ドイツ語版)、ゲオルク(ドイツ語版)、同名の息子ヤーコプ(ドイツ語版)の3兄弟が契約を交わし、正式に商会を設立した。この契約は兄弟で資産を分割せず、生き残った商社員が商会を運営していくというものであり、フッガー家の特色となった。同年にはノイゾールの銅山を入手し、翌年トゥルゾー家と「ハンガリー貿易会社(Ungarische Handel)」を設立した。これがシレジアの金山の大部分を支配した。ヴェネツィアなどにも支店を持った。 ゲオルクとウルリヒが死亡し、1511年にヤーコプは「ヤーコプ・フッガーとその甥たち」という商会を設立した。同年、ヤーコプは神聖ローマ帝国の貴族に列せられ、1514年には伯に叙せられている。ヤーコプはスペイン国王やローマ教皇の御用銀行でもあった。1517年の贖宥状(免罪符)販売は、ブランデンブルク公がフッガー家への借金を返還するためでもあった。 1519年、カルロス1世に選挙資金を貸し付けた。カルロスはフランス王を抑えて皇帝に選ばれた。ヤーコプは、カルロスの支配するナポリ王国の収入の一部や、レコンキスタ完了後に国有化の進んだスペイン騎士修道会所領の地代収入から債権を回収した。一方で、ヘルマン・ケレンベンツ(ドイツ語版)によれば、カルロス5世はフッガー家よりもジェノヴァの銀行から多くを借り入れていた。 ヤーコプには実子がおらず、商会の後継者に甥のアントーン(ドイツ語版)を指名した。アントーンの時代には80以上の都市に支店が設立され、資産は710万フローリンと最大になった。しばしば比較されるメディチ家やウェルザー家は10程度の都市に支店をおいているに過ぎなかった。 アントーンは1530年に帝国伯を授爵し、1538年にはアウクスブルクにおける都市貴族に列し、シュヴァーベンのウンターアルゴイ郡バーベンハウゼン(ドイツ語版)の領有権を得た。フッガー家は1600年までに100の村と50の土地領主権を手にしている。 しかし、新大陸などから大量の銀が流入しヨーロッパ鉱山の経営が悪化した。顧客であるスペイン王室等の王侯が戦争で貸付金を踏み倒すようになった。またアントウェルペン支店支配人エルテルがアントーンの指示に従わず、スペイン王室からの債権回収に失敗して多額の損失を出している。これらはフッガー家の当主が各支店を制御できなくなりつつあることを示すものであった。このスペイン王室、そしてフランス王室からの支払停止は国際的な経済にも影響を及ぼし、フッガー家衰退の大きな要因となる。 1560年、アントーンは遺言を残し、フッガー家の事業は兄ライモントの家系と自分の子が一人ずつの代表を出し、経営していくよう遺言を残している。アントーンの死後、一族は内紛を起こし、長子マルクスの代にフッガー家の事業は三十年戦争が終わると解散してしまった。 フッガー・バーベンハウゼン家(ドイツ語版)(アントーンの三男の子孫)はアンセルム・マリア・フッガー・フォン・バーベンハウゼン(ドイツ語版)が1803年に帝国諸侯に叙せられ、バーベンハウゼン侯国が成立したが、直後の1806年にバイエルン王国へ併合された。以後は陪臣化しフッガー諸家と共にシュタンデスヘルとして続いた。バーベンハウゼン家の子孫には、第2次大戦時のドイツ空軍少将レオポルド伯などがいる。 他にフッガー・グレト家(アントーンの次男の子孫)、フッガー・キルヒベルク=ヴァイセンホルン家(アントーンの兄ライモントの子孫)など各家がある。キルヒハイム宮殿(ドイツ語版)はアントーンの息子ハンスの家系の居城として現在も用いられている。
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