マリーン朝の建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 08:19 UTC 版)
13世紀初頭、アルジェリア東部のビスクラ地方で遊牧民族が建国したマリーン朝が台頭し、1248年にフェズはマリーン朝の支配下に入る。マリーン朝はこれまでモロッコを支配していたムワッヒド朝との関係を絶つため、ムワッヒド朝時代の都マラケシュに代えて、フェズを首都に制定した。1276年にマリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブはフェズの新市街(フェズ・エル・ジェディド)の建設を命じた。1395年には新市街に大モスクが建立され、新たな宮殿も建設される。マリーン朝時代のフェズは旧市街が経済の中心地、フェズ・エル・ジェディドが行政の中心地となり、あたかも双子都市のように機能していた。旧市街には家屋が密集し、14世紀の最盛期にはおよそ100,000人の市民が旧市街に居住していた。武器博物館の裏には、マリーン朝王族の墓地が広がっている。 フェズはイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒にとっても重要な町であり、11世紀の地理学者バクリーはフェズには他のマグリブのどの都市よりもユダヤ教徒が多く住んでいたと記している。イスラム教徒の住民とユダヤ教徒の住民の関係は不安定であり、時にはイスラム教徒によるユダヤ教徒の殺害・略奪が起きた。1276年に起きたポグロム(ユダヤ教徒の大量虐殺)の後からマリーン朝はユダヤ教徒の居住区の必要性を痛感し、1438年ごろにフェズ・エル・ジェディドにメッラーフ(mellah, ヘブライ語: מלאח, アラビア語: ملاح, الملاح, ユダヤ教徒の強制隔離地区)が設置された。また、マリーン朝時代のフェズにはユダヤ人居住区以外にイベリア半島出身のキリスト教徒傭兵の居住区、シリア出身の弓兵の居住区も設けられていた。 マリーン朝の滅亡後に成立したワッタース朝はフェズを首都とし、1549年にフェズはマラケシュを本拠とするサアド朝の支配下に入る。フェズは外来者の受け皿となり、グラナダのナスル朝の滅亡によって現れた難民を受け入れ、アルジェリアやサハラ砂漠からの移民のための居住区が建設される。16世紀以降、断続的に起きる反乱によってフェズの町は衰退していく。17世紀に成立したアラウィー朝はフェズを首都に定め、宗教・学問・商業の中心地として繁栄する。 1911年にフェズはフランスによって占領され、翌1912年に締結されたフェズ条約によってモロッコはフランスの保護下に置かれる。フランス統治下のフェズは軍用地域と市民用地域に分けられ、移動は制限されていた。1916年にフランス人居住区として第三の市街地(ヴィル・ヌヴェル)が建設され、フェズに3つ目の市街が形成される。新市街は幅の広い道路が直角に交差する「近代的」な構造で、さながら迷路のような旧市街と対照的な町並みとなっている。また、フランスによって公布された旧市街に新たな建築物を建てることを禁じる法令は、旧市街の景観の維持に一役買った。このような状況下で、フェズのイスラーム法学者はラバトの知識人と共にモロッコの民族独立運動の担い手として、フランスへの抗議活動に参加した。第二次世界大戦期のアフリカでの植民地戦争において、フェズはレジスタンスの拠点となった。
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