マリーン朝の支援とジブラルタルの占領
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「ムハンマド4世 (ナスル朝)」の記事における「マリーン朝の支援とジブラルタルの占領」の解説
「第三次ジブラルタル包囲戦」および「第四次ジブラルタル包囲戦(英語版)」を参照 アブル=ハサンのナスル朝への援軍は、息子のアブー・マーリク・アブドゥルワーヒド(英語版)が率いる5,000人の兵士によって構成されていた。軍隊は1333年の初頭にアルヘシラスへ向けて出航し、すぐに海と陸の両側からジブラルタルを包囲した。そしてマリーン朝の軍隊にはリドワーンに率いられたナスル朝の部隊も加わった。カスティーリャの提督のアルフォンソ・ホフレ・テノーリオはジブラルタルに物資を届けようとしたが、マリーン朝の艦隊による封鎖のために阻止された。これに対してカスティーリャの艦隊は船上のトレビュシェットを用いて町中に向けて小麦粉の袋の発射を試みたものの、袋のほとんどは城には届かなかった。その一方でムハンマド4世はカストロ・デル・リオ(英語版)を攻撃した。この攻撃は失敗に終わったが、その後カブラ(英語版)の要塞の占領に成功した。ジブラルタルの守備隊はおよそ5か月に及んだ包囲の末、1333年6月17日に降伏し、守備隊は町の外へ安全に去ることが認められた。アルフォンソ11世は降伏の3日後に、救援軍がヘレスを出発してわずか数日行軍した時点でその知らせを聞いた。 アルフォンソ11世は行軍を早め、6月26日にカステジャール(英語版)の近くでグアダランケ川(英語版)を渡り、すぐさまジブラルタルを奪還するために包囲を開始した。イスラーム教徒はアルヘシラスから物資を運ぶことで町を強化し、町に駐屯していたアブー・マーリクの軍隊はアルフォンソ11世の軍隊に抵抗した。その一方でムハンマド4世はカスティーリャの注意を逸らすためにカスティーリャの領土へ反撃に向かい、ベナメヒ(英語版)を占領し、コルドバ周辺の一帯を襲撃した。カスティーリャ側ではアルフォンソ11世の軍隊がアブー・マーリクの軍隊によって釘付けにされ、さらにはムハンマド4世に対抗するはずであったカスティーリャの貴族たちが反乱を起こし、アルフォンソ11世の陣営を離脱したフアン・マヌエルが反乱側に回って国王側の城を攻撃したために、ムハンマド4世が抵抗を受けることはなかった。 その後、ムハンマド4世はジブラルタルに向けて進軍した。そして最初は包囲されたジブラルタルに近いグアディアロ川(英語版)の岸辺で野営し、続いてアブー・マーリクを支援するためにシエラ・カルボネラ(英語版)へ向かった。イスラーム教徒とキリスト教徒の軍隊は数日にわたって戦い、何度かの小競り合いが続いたものの、どちらの側も決定的な勝利を収める確信を得られなかった。また、アルフォンソ11世は自身の統治下にある地域への反乱側の貴族による破壊行為に懸念を抱いていた。結局1333年8月24日に停戦が成立し、ムハンマド4世とアルフォンソ11世はセビーリャで結ばれた1331年の条約を再確認した。ムハンマド4世はさまざまな贈り物を携えてアルフォンソ11世のテントを訪れ、これに対してカスティーリャの王は敬意の印として頭に何も冠らずにムハンマド4世を徒歩で出向いて歓迎し、豪勢な食事を共にした。
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