ポルノ女優第一号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:26 UTC 版)
鈴木と天尾がスカウトした池玲子を面接した岡田は即決で「主演をやらせろ」と命令、池と杉本の「二人を育てろ」と指示した。池は当時、文化学院高校二年在学中の16歳(映画公開時17歳)。父は東京都内で建築設計事務所を経営する硬い家系だったが、学校にも行かず親とも断絶していた。妹役の杉本は18歳で問題なかったが、姉役の池の方が16歳だったため、一般映画とはいえ、映画の内容からそのままでは東映への批判は勿論、文部省なども黙っていないと考え、履歴書を18歳に捏造することにした。劇中、慰安旅行に来た文部省御一行と芸者が破廉恥行為をするシーンも用意されていた。天尾と鈴木は「本当の年齢がバレないよう干支を聞かれたときは間違いないこと」と念押しさせ、記者会見では質問事項を予想し、予め用意したものを池に語らせた。 無名の新人女優・池玲子を何とか売り出したいと考えた天尾は、それまでのピンク女優という言い方ではなく、成人映画のイメージを一新したい、何か新鮮なセックス女優をアピールする代名詞はないかとあれこれ思案し「衝撃のポルノ女優池玲子」とキャッチフレーズを付けた。また広告にも「ポルノ映画誕生」と大きくキャッチコピーを打った。これが"ポルノ"という言葉の誕生で、今日SEX映像の代名詞として日本で定着する、"ポルノ"という言葉は、このとき東映が作った造語である。"ポルノグラフィ"という言葉は、文学、絵画、写真等の官能表現の一分野として存在はしていたが、知る人のみが知る異端の業界用語で一般には知られてなかった。これ以前は、ヌードとセックスを売り物にした映画は"ピンク映画""お色気映画""セクシー映画"など、曖昧な呼称で表現されていた。天尾は「新しいセックス路線の幕開けだ」と自慢した。当時、東映女優に力を入れていた「平凡パンチ」のグラビアにこのキャッチフレーズが書かれたことで、これに芸能マスコミが喰いつき、"ポルノ女優第一号池玲子"に取材が殺到、"ポルノ"という言葉が各メディアに氾濫した。「平凡パンチ」の池のゴージャスなヌードグラビアには、たいてい鈴木のポエムが掲載され、池のヌードをワンランク上昇させる知的援護射撃がなされた。"ポルノ"という言葉はスポーツ新聞から、夕刊紙、週刊誌などに拡散され、川上宗薫や梶山季之といった作家の官能小説には"ポルノ小説"という言葉が付けられた。日活も東映のアイデアを拝借して"日活ロマンポルノ"という言葉を作り、本作『温泉みみず芸者』公開から4か月後の1971年11月20日に『団地妻 昼下りの情事』『色暦大奥秘話』を"日活ロマンポルノ"第一弾として封切り「ポルノ映画」という名称が一気に普及、"ポルノ"という言葉が日本に広く認知され定着していった。 池には「"ポルノ"という言葉は綺麗でエロティックで凄く良い意味なんだ」と言い含め、池も「全然いやらしくないし、すっごく可愛い感じがする」と喜んでいたという。この他、池に「一万人に一人の名器」とキャッチフレーズを付けたが、池は「そんなこと気にしてたら何もできないわ。ボーイフレンドは30~40人。体験はもちろんあるわよ。だけどみんな物足りないものばっかりだったわ」などと豪語した。池は美貌と巨乳で人気女優にのし上がった。 妹役の杉本は出番は少なめ。最初とラストのセックス対決のみ出てきて裸にもならない。
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