ベルクソンによる議論 「無い」は無い
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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「ベルクソンによる議論 「無い」は無い」の解説
20世紀、この問いを哲学の主題として呼び戻すことに一定の貢献をしたのが、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859年 - 1941年)である。以下、ベルクソンが1907年に発表した著作『創造的進化』から。 私は哲学をしはじめるやいなや「なぜ自分は存在するのか」と自問する。自分を自分以外の宇宙とつなぐ連帯が呑みこめると、そのとき困難は後じさりしただけなので、つぎに私は「なぜ宇宙は存在するか」を知ろうとする。さらに宇宙を内在もしくは超越的な「原理」にむすびつけ、これが宇宙を支えるあるいは創造することにしてみても、私の思考はその原理にほんのしばらくしか落ち着けない。おなじ問題がこんどはそのありったけの含みと一般性をそなえてあらわれる。「なにかが存在する」ということは何処からくるか、それはどう理解したらよいのか。私はこの研究においても物質を一種の下りとして、その下りを上りの阻害として、その上りそのものは増大としてつぎつぎに定義し、要するにものの底に創造の「原理」を置いてきたのであるが、ここでもやはりおなじ問題がもちあがる。「その原理が存在していてむしろ何もないのではないということはどうしてか、なぜか。」 — アンリ・ベルクソン 『創造的進化』(1907年)、 真方敬道 訳 (強調引用者) ベルグソンはこう問うた後、存在と無の概念に関わる、広く見られる捉え方について述べ、それを錯覚であるとした上で、この問いをニセの問題と位置づけた。ベルクソンが錯覚と言ったのは、無が、有より、より基本的で単純なものだ、という考え方である。多くの人は、まず無があり、そこに何らかの存在物が付加され、そして有となる、といった考え方をする。つまり「無 + 何か → 存在」といった考え方をする。しかし無に対するこうした考え方は間違っている、とベルクソンは言う。無の観念が得られる過程は、実際には、まず頭の中で何らかの存在物が思い描かれ、そしてそれに対して否定、すなわち消し去るという作業が行われ、そしてそれによって無の観念が得られる、とする。つまり無の観念は「存在 + 否定 → 無」という形で得られているものであり、無は存在よりもより複雑な複合的な概念だとした。すなわち無は「非-存在」とでも表現されるべきものであり、より基礎的で単純なのは存在の観念の方であるとした。 ベルクソンは多くの人がこうした考え方、すなわち「存在を無の征服」として捉える考え方をするようになる原因を、人間の生態学的なあり方に求めた。 およそ人間の行動の出発点に不満足があり、だからこそまた欠在の感じがあることは争えない。ひとはある目標をたてなければ行動しないであろうし、あるものの欠如を感じればこそそれを求めもする。そのようなことで、私たちの行動は「無」から「あるもの」へと進むのであり、「無」のカンヴァスに「あるもの」を刺繍することは実に行動の本質をなしている。もっとも、いま問題の無とはものの欠在よりはむしろ有用性の欠在のことである。まだ家具でかざられていない部屋に客をみちびくとき私は客に告げて「なにもありません」という。しかし部屋に空気のみちていることは知っている。けれども空気のうえに坐るのではないから、只今のところ部屋のなかには客にとっても私自身にとってもものらしいものは正直いってなにもなかったわけである。一般的にいって、人間の仕事とは有用性を創造することである。そして仕事がなされないかぎりは「なにも」ない、すなわちひとが入手したかったものは「なにも」ない。こうして私たちの生は空虚をうずめることで過ぎる。…私たちの思弁もまた同じようにやってみずにはいられない。…事象は空虚をうずめるものだとする考えや、あらゆるものの欠在という意味での無は事実上そうではないにしても権利上はあらゆるものに先在するという考えが、こうして私たちのなかに根をおろす。私はこの錯覚を消散させようとこころみてきた。… — アンリ・ベルクソン 『創造的進化』(1907年)、 真方敬道 訳 ちなみにここでベルグソンが取っている、人間の認知のあり方を、その生態的地位や置かれている環境との相互作用から理解していこうとするアプローチは、身体化された認知(en:Embodied cognition)、状況的認知(en:Situated cognition)、また進化論的認識論(Evolutionary epistemology)などと呼ばれる。 そしてベルクソンは、何かが存在するということは、論理学における同一律(どんなものもそれ自身と等しい、3=3, -15=-15 などを一般化した規則)「A=A」などと同じく、他の何ものにも依存せず、ただそれ自身によって成り立っていると言ってよいような自明なことだろうとし、存在することは、それに対する何らかの理由づけや根拠を提示する必要のない事である、とした。むしろベルクソンが問題としたのは、もう一つの方の問い、つまりライプニッツがセットで提出した二つの問い「なぜ無ではなくて有か」と「なぜ様々な有のなかでこの有か」のうちの後者の問い、すなわち「なぜ世界はこのようになっているのか」という形の問いの方を真性の問題として捉えた。
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