ベルクソンによる議論 「無い」は無いとは? わかりやすく解説

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ベルクソンによる議論 「無い」は無い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:07 UTC 版)

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「ベルクソンによる議論 「無い」は無い」の解説

20世紀、この問い哲学主題として呼び戻すことに一定の貢献をしたのが、フランス哲学者アンリ・ベルクソン(1859年 - 1941年)である。以下、ベルクソン1907年発表した著作『創造的進化』から。 私は哲学しはじめるやいなや「なぜ自分存在するのか」と自問する自分自分以外の宇宙とつなぐ連帯呑みこめると、そのとき困難は後じさりしただけなので、つぎに私は「なぜ宇宙存在するか」を知ろうとする。さらに宇宙内在もしくは超越的な原理」にむすびつけ、これが宇宙支えるあるいは創造することにしてみても、私の思考はその原理にほんのしばらくしか落ち着けない。おなじ問題がこんどはそのありったけの含み一般性そなえてあらわれる。「なにかが存在するということは何処からくるか、それはどう理解したよいのか。私はこの研究においても物質一種下りとして、その下り上り阻害として、その上そのもの増大としてつぎつぎ定義し要するにものの底に創造の「原理」を置いてきたのであるが、ここでもやはりおなじ問題もちあがる。「その原理存在していてむしろ何もないのではないということはどうしてか、なぜか。」 — アンリ・ベルクソン 『創造的進化』(1907年)、 真方敬道 訳 (強調引用者) ベルグソンはこう問うた後、存在と無概念関わる広く見られる捉え方について述べ、それを錯覚であるとした上で、この問いニセ問題位置づけた。ベルクソン錯覚と言ったのは、無が、有より、より基本的単純なものだ、という考え方である。多くの人は、まず無があり、そこに何らかの存在物が付加され、そして有となる、といった考え方をする。つまり「無 + 何か → 存在」といった考え方をする。しかし無に対すこうした考え方間違っている、とベルクソンは言う。無の観念得られる過程は、実際には、まず頭の中で何らかの存在物が思い描かれ、そしてそれに対して否定、すなわち消し去るという作業が行われ、そしてそれによって無の観念得られる、とする。つまり無の観念は「存在 + 否定 → 無」という形で得られているものであり、無は存在よりもより複雑な複合的な概念だとした。すなわち無は「非-存在」とでも表現されるべきものであり、より基礎的単純なのは存在観念の方であるとした。 ベルクソン多くの人がこうした考え方、すなわち「存在を無の征服」として捉える考え方をするようになる原因を、人間生態学的なあり方求めた。 およそ人間の行動出発点不満足があり、だからこそまた欠在の感じがあることは争えない。ひとはある目標をたてなければ行動しないであろうし、あるものの欠如感じればこそそれを求めもする。そのようなことで、私たち行動「無」から「あるもの」へと進むのであり、「無」カンヴァスに「あるもの」を刺繍することは実に行動本質をなしている。もっとも、いま問題の無とはものの欠在よりはむしろ有用性の欠在のことである。まだ家具でかざられていない部屋に客をみちびくとき私は客に告げて「なにもありません」という。しかし部屋空気のみちていることは知っている。けれども空気のうえに坐るではないから、只今のところ部屋なかにはにとっても自身にとってもものらしいものは正直いってなにもなかったわけである。一般的にいって、人間仕事とは有用性創造することである。そして仕事なされないかぎりは「なにも」ない、すなわちひとが入手したかったものは「なにも」ない。こうして私たちの生は空虚をうずめることで過ぎる。…私たち思弁もまた同じようにやってみずにはいられない。…事象空虚をうずめるものだとする考えや、あらゆるものの欠在という意味での無は事実上そうではないにしても権利上はあらゆるものに先在するという考えが、こうして私たちのなかに根をおろす。私はこの錯覚消散させようこころみてきた。… — アンリ・ベルクソン 『創造的進化』(1907年)、 真方敬道ちなみにここでベルグソン取っている、人間の認知あり方を、その生態的地位置かれている環境との相互作用から理解してこうとするアプローチは、身体化された認知en:Embodied cognition)、状況的認知en:Situated cognition)、また進化論的認識論Evolutionary epistemology)などと呼ばれる。 そしてベルクソンは、何かが存在するということは論理学における同一律(どんなものもそれ自身等しい、3=3, -15=-15 などを一般化した規則)「A=A」などと同じく、他の何ものにも依存せず、ただそれ自身によって成り立っていると言っていような自明なことだろうとし、存在することは、それに対す何らかの理由づけ根拠提示する必要のない事である、とした。むしろベルクソン問題としたのは、もう一つの方の問い、つまりライプニッツセット提出した二つ問い「なぜ無ではなくて有か」と「なぜ様々な有のなかでこの有か」のうちの後者問い、すなわち「なぜ世界このようになっているのか」という形の問いの方を真性問題として捉えた

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