プロケシュとの友誼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:36 UTC 版)
「ナポレオン2世」の記事における「プロケシュとの友誼」の解説
身長190㎝の美丈夫に成長したライヒシュタット公の周囲は、常に誘拐や政治利用の話が絶えなかった。また早朝から訓練に励んだ結果、この冬もしつこい咳が続いた。 1830年6月、ライヒシュタット公と祖父フランツ1世は、マリー・ルイーゼを許すという意思表示もあって古都グラーツで再会を図った。グラーツではライヒシュタット公を見ようと群衆が集まり、「ナポレオン万歳」の歓呼がこだました。地区司令官アロイス・フォン・マッツチェリ(Alois von Mazzuchelli)伯爵は、かつて自身がナポレオン1世に仕官していたこととマレンゴの戦いに参加した栄誉をライヒシュタット公に伝えると、公はマッツチェリ伯からナポレオン1世に関する昔語りを聞いて感激した。 ライヒシュタット公は、マッツチェリ伯からナポレオン1世に関する話を聞こうと、6月22日、皇后やヨハン大公の同席の下、ウィーンで晩餐会を開いた。このとき、マッツチェリ伯に同行した副官が、34歳のアントン・フォン・プロケシュ=オステン少佐だった。プロケシュ=オステン少佐は戦史研究家として名を馳せる青年将校だった。 翌23日、ディートリヒシュタインがプロケシュ=オステン少佐をライヒシュタット公に再び引き合わせると、少佐がナポレオン1世を擁護する論考を発表していたことに謝意を伝えた上で、父の様な野戦司令官やフランス出身でオーストリアに仕官したプリンツ・オイゲンへの憧れを語った。また、プロケシュ=オステン少佐はライシュタット公が、ギリシャ独立戦争の結果アドリアノープル条約によってオスマン帝国からの独立を承認されたギリシャ王国の新たな君主に相応しいと考えていた。ライヒシュタット公は、自分の思いを打ち明けられる相手を得て、気持ちが晴れた。 一方フランスでは、7月27日から29日にかけて七月革命が起き、ブルボン朝が再び打倒された。このとき、フランスの右派からライヒシュタット公をフランス国王に担ぎ出そうとする試みがあった。また、8月からはベルギー独立革命が起き、この初代国王にもライヒシュタット公が有力視された。さらに秋にはポーランドで11月蜂起が発生し、民衆から「ナポレオン2世」を担ぎ出す声が挙がった。宰相メッテルニヒは12月26日に「ライヒシュタット公の国王への門は閉ざされている」と社交界で発言し、この発言が広まって以降、ライヒシュタット公担ぎ出しの動きは終息に向かった。 1831年1月下旬、ライヒシュタット公は在墺英国大使館のパーティーに出席し、プロケシュ=オステン少佐の引き合わせでフランスのオーギュスト・マルモン元帥と対面する。双方にとって感激的な対面であり、ライヒシュタット公の希望でマルモン元帥の講義を受けることとなり、メッテルニヒも了承した。1月28日から約二か月にわたる講義により、父ナポレオン1世をより身近に感じるようになった。 その後、ライヒシュタット公は、プロケシュ=オステン少佐と、自らの行動が制約された「籠の鳥」の状況を打開する策を話し合うが、公自身の病状悪化により実現することは無かった。 同年3月、メッテルニヒはプロケシュ=オステン少佐を在ボローニャの教皇庁大使に任じ、ライヒシュタット公は友の栄転に別れを惜しむ手紙を記した。 アロイス・フォン・マッツチェリ(1837年画) アントン・フォン・プロケシュ=オステン(1834年画) オーギュスト・マルモン仏元帥
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