プリマスの成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
人口の推移年月人口1620年12月 99人 1621年4月 50人 1621年11月 85人 1623年7月 180人 1627年5月 156人 1630年1月 約300人 1643年 約2000人 1691年 約7000人 1621年11月、ピルグリムがニューイングランドに最初の一歩を記してからほぼ一年後に、マーチャント・アドベンチャラーズによって送られた2番目の船が到着した。フォーチュン号には37名の新しい入植者が乗っていた。しかし、船の到着が予想されたものではなく、多くの補給物資も無かったので、入植者が増えたことは植民地の資源に歪みをもたらすことになった。フォーチュン号の乗客の中には、元ライデンの信徒が数人混じっていた。ウィリアム・ブリュースターの息子のジョナサン、エドワード・ウィンスローの兄弟のジョン、およびフィリップ・ド・ラ・ノイエだった。ノイエは後に姓をデラノに変えたが、その子孫が後のアメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトである。フォーチュン号はまた、マーチャント・アドベンチャラーズからの手紙も運んできた。それは彼らの支援に対して約束していたメイフラワー号に載せて返すはずの商品が無かったことで植民地を非難するものだった。フォーチュン号は500ポンドの価値のある商品を載せてイギリスへの帰途に就いた。それは負債の返済スケジュールを守る以上のものだった。しかし、フォーチュン号はイギリスに船荷を届ける前にフランスに捕獲されてしまい、植民地にとってさらに大きな負債を作ってしまった。 1623年7月、また2隻の船が到着し、新たに96名の入植者を運んできた。アンソニー・ダイク船長のアン号とその10日後に着いたリトルジェイムズ号だった。ライデンから来た人々の中にはウィリアム・ブラッドフォードの未来の妻、アリスが含まれていた。アン号で来た入植者の中には辺境での生活に適合できず、あるいは植民地にとって望ましくない者も居り、翌年イングランドに戻った者もいた。グリーソン・アーチャーに拠れば、「残った者達はマーチャント・アドベンチャラーズとの協定下に植民地に加わろうとはしていなかった。彼等は自分達の社会に入植する、あるいは少なくともプリマスの入植者が規制されている制約を受けないという、マーチャント・アドベンチャラーズとの合意の上でアメリカに渡ってきていた。入植者に宛てられ、商人13人の署名がある手紙には、これらの事実が挙げられ、新参の者は特有の条件で受容されることを促していた。」新しく到着した者達には、プリマス・ロックの1マイル (1.6 km) 南、ホブス・ホールと呼ばれるイール川沿いの土地が当てられ、後にウェリングスリーとなった。 1623年9月、別の船で失敗したウェイマスの植民地を再度建設する入植者が到着し、一時的にプリマスに滞在した。1624年3月には、更に何人かの入植者と初めての牛が到着した。1627年の牛を分割するリストでは、156名の植民者が13の植民地のそれぞれ12の区画に分かれていたとある。もう1隻、これもメイフラワー号と名付けられた船がライデンの信徒35名を1629年8月に運んできた。1629年から1630年に着いた船は多くの乗客を運んできた。正確な数字は分からないが、当時の文書では1630年1月までに植民地にはおよそ300名が居た。1643年、軍隊に従軍できる男性が600名いたことは、全人口は2,000名くらいになっていたことを示している。植民地を解散することになる前年の1690年、最も人口の多いプリマス郡の総推計人口は3,055名だった。この時の植民地全体の白人人口はおよそ7,000名だったと推定できる。比較のために1630年から1640年の間、つまりピューリタンの大移住の時代にマサチューセッツ湾植民地だけで2万人以上の白人入植者が到着したと推定されている。また、1678年のニューイングランド全体のイギリス人人口は6万人台だったといわれる。プリマスが最初の植民地であるという事実にも拘わらず、マサチューセッツ湾植民地に吸収されるとき、プリマス植民地は比較的小さかったことになる。
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