プリマスの終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
1686年、この地域全体がニューイングランド自治領と呼ばれる一つの政府の元に組織化された。自治領にはプリマス植民地の他に、ロードアイランド、マサチューセッツ湾、コネチカットおよびニューハンプシャーの各植民地が含まれていた。1688年には、ニューヨーク、ウエスト・ジャージー、およびイースト・ジャージーが追加された。自治領の総督はエドマンド・アンドロスが指名されたが、全く人気が無く、自治領は長く続かなかった。プリマス植民地は反発し1688年4月に自治領から脱退した。自治領全体は1688年の名誉革命の報せが届いた時に崩壊した。 しかし、プリマス植民地の自治権回復も長くは続かなかった。インクリーズ・マザーに率いられたニューイングランドの代表団が、自治領時代に無効化された植民地特許を返して貰うためにイギリス本国へ交渉に行った。プリマス植民地にとって特に事態を悪くしたのは、元々設立の時から正式な特許を得ていなかったことだった。プリマスは正式の特許を得たいという願いが叶えられず、プリマス植民地をマサチューセッツ湾植民地に付属させるという新しい勅許が下った。プリマス植民地を終わらせる公式の宣言日は1691年10月17日であり、新しい総督ウィリアム・フィップスがマサチューセッツ湾植民地勅許を持って来た1692年5月14日に有効なものとなった。プリマス議会の最後の公式招集日は1692年6月8日だった。
※この「プリマスの終焉」の解説は、「プリマス植民地」の解説の一部です。
「プリマスの終焉」を含む「プリマス植民地」の記事については、「プリマス植民地」の概要を参照ください。
- プリマスの終焉のページへのリンク