ブレア・ウィッチの伝説
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「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の記事における「ブレア・ウィッチの伝説」の解説
映画製作にあたって、マイリックらは物語の根幹として「メリーランド州に伝わるブレア・ウィッチ伝説」という架空の伝説を創作し、映画は伝説を取材した学生たちが遺したフィルムであるという設定のもと製作された。主にメディアミックスで紹介される。以下は、映画の基礎となった架空の伝説の概略となる。 メリーランド州バーキッツヴィルに伝わるブレア・ウィッチ(劇中ではエリー・ケドワードと推測されている)の呪いの伝説は、18世紀に始まる。特に印象的な歴史的に大きな事件が50~60年ごとに3回起こっている。(アイリーン・トリクール事件・コフィン・ロック事件・ラスティン・パー事件) 1734年 ブレアの町設立。 1769年 エリー・ケドワード渡米 1785年 エリー・ケドワード追放 1786年 ブレア・ウィッチの誕生。ブレアの町廃墟に。 1809年 『ブレア・ウィッチ・カルト』出版。ブレアの町の事件について書かれた初の書籍。 1824年 ブレア跡地にバーキッツヴィル設立。 1825年 アイリーン・トリクール事件 1886年 コフィン・ロック事件 1941年 ラスティン・パー事件 1994年 自主制作映画スタッフ失踪事件 (本作) ブレア・ウィッチの誕生 1785年02月、子供達の血を抜き取ることを目的に家に誘い込もうとしたとしてエリー・ケドワードが、数名の子供の証言により訴えられる(いわゆる魔女狩り)。ケドワードは魔術を使ったかどで有罪となり、寒さのとりわけ厳しい冬のさなかに木に縛られたまま森に放逐されたため、死んだものと憶測されていた。 1786年11月、ケドワードを告発した者たち全員と町の子供たちの半分が、真冬の頃までに姿を消してしまう。町の人々は呪いを恐れ、ブレアの地から逃げ出し、以後二度とエリー・ケドワードの名を口にしないことを誓いあった。 アイリーン・トリクール事件 1825年、11人の目撃者によると、青白い女の手が水中より上がって来て、10歳の アイリーン・トリークルを川に引きずり込んだ。アイリーンの遺体は発見されなかったが、彼女の溺死後13日間にわたって、油にまみれた木切れの束が小川に多数浮かび、流れがよどんだ。この時、川の水を飲んだ牛が死んだ。 コフィン・ロック事件 1886年、8歳のロビン・ウィーバーが行方不明となり、捜索隊が出される。ウィーバーは無事に探し出されたが、捜索隊の一つが帰還しなかった。数週間後、別の捜索隊により内臓を完全に抜かれ、手足を縛り合わされた行方不明の捜索隊の全裸の遺体が、ひつぎ岩(コフィン・ロック)で発見される。それらの遺体の手足、顔には奇怪なシンボルが刻まれていた。しかし発見した捜索隊が戻ったとき、遺体は消失していた。又、ウィーバーは森で宙に浮いた女を見たと証言した。 ラスティン・パー事件 1940年から子供の行方不明が相次ぐ中、1941年05月、ラスティン・パーという名前の中年の隠遁者が、町に現れ「ついにやり遂げた」と語った。不審に思った警察が徒歩で4時間かけて到着した、彼が隠遁暮らしをしていたブラック・ヒルズの森の家にある地下の貯蔵庫で、行方不明だった7人の子供の遺体を発見する。儀式めいた殺され方をしており、内臓を抜かれていた。 パーはすべての犯行を認め、森に住む「年老いた女の幽霊」のためにやったのだと当局に語る。生き残った少年カイル・ブロディの告発もありその後、バーは裁判で有罪を宣告され、絞首刑に処される。その後、村人の放火によりラスティン・パーの館も焼失した。 後にこの事件は、特別番組『ブレアウィッチ2』序章『バーキッツヴィル7』で映像記録保管人クリス・キャラスコにより新たな真相が明かされる。7人の子供の名前はエミリー・ホランズ、テラ・シェリー、マーガレット・ロウエル、スティーブ・トンプソン、エリック・ノリス、マイケル・ギドリー、ジュリー・フォーサイスと明かされた。
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