ブレア・ブラウン政権時代
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「イギリス労働党の派閥」の記事における「ブレア・ブラウン政権時代」の解説
ブレア党首の誕生と政権奪回の実現で、モダナイザーが党内の主導権を確立した。しかしその後、かつては盟友であったブレア首相とブラウン蔵相の個人的確執から、その支持者を巻き込んで党が2分されてしまう事態が何度か起こった。両者の間には、1994年の党首選挙を巡り、どちらがモダナイザーの立場を代表して出馬するかを話し合ったとき、ブラウンがブレアを推すかわりに、ブラウンに後継党首の座を譲るという密約(ブレア=ブラウン密約)があったとされ、早い時期での党首の座の禅譲を求めるブラウンと、党首の座に座り続けるブレアとの間には、しだいに軋轢が生じるようになった。 ブレア派・ブラウン派の比較ブレア派ブラウン派対テロ戦争積極的推進 イラク戦争反対 通貨ユーロ加盟賛成 ポンド維持 授業料自由化賛成 反対 経済市場の多様 市場の多様に慎重 両者共にモダナイザーの一角であることに変わりは無く、ブレア派とブラウン派の対立は、政策的なものというよりも人間関係やポスト争いからくる対立、という側面の方が大きい。あえて政策的な対立をあげるなら、ブラウンの方がブレアよりも左派傾向が強いとされる(他は右の表を参照)。ブラウン派はイラク戦争の失敗で失速するブレアに対して、ブラウンへの政権移譲を強く迫り、ブラウン政権の誕生後、ブレア派は過去の経緯からブラウン首相への批判勢力となっている。 また、2007年の党首選挙で、ゴードン・ブラウンへの対抗馬として左派キャンペーン・グループからジョン・マクダネルが出馬を模索したものの、必要な推薦人を集めきれずに出馬には至らなかったことは、党内左派の弱体化を印象付けた。
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