ブレア首相の改革とオーストラリア国民投票
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:06 UTC 版)
「エリザベス2世」の記事における「ブレア首相の改革とオーストラリア国民投票」の解説
「貴族院 (イギリス)」も参照 王室が大きな危機と変革の時を迎える1997年、20世紀で最も若い首相として労働党のトニー・ブレアが就任した。ブレアの急進的な改革は、女王に大きな衝撃を与えた。 ブレアは前々首相のサッチャー時代に推進された中央集権体制を覆し、再び権限移譲を推進した。就任早々1997年9月に、スコットランド及びウェールズで立法権の付与と議会の設置が決定した。翌1998年4月のベルファスト合意(聖金曜日の合意)により、北アイルランド問題の解決へ大きく進展するとともに、北アイルランドにも立法権付与と議会設置が行われることになった。 そして1999年には、貴族院改革として、世襲貴族の議席を全廃する案を提示した。最終的には、世襲貴族が92議席に大幅に限定され、1958年の一代貴族法による一代貴族たちの比率が上昇することとなった。 20世紀を通じ、段階的に自治権や主権を拡大し、また白豪主義廃止以降はアジア系移民が増加してきたオーストラリアでは、2000年シドニーオリンピックを控えた1999年11月に共和制導入を問う国民投票が行われたものの、否決された。ただし、これは複数の共和制の案の悪いものであったためで、世論調査からも、共和制移行そのものが否定されたわけではなかった。女王は翌2000年3月に同地を訪問し、国民投票の結果を尊重するとして女王としての責務を果たすことを表明した。この後、女王は十数回にわたり、オーストラリアを訪問することとなる。 2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件を機に、米国は対テロ戦争(アフガニスタン紛争、イラク戦争)へ進み、ブレア政権もこれに追従した。特にイラク戦争に際して、ジョージ・W・ブッシュ米大統領は、2002年1月の一般教書演説で「悪の枢軸」と名指しし、イラクが大量破壊兵器を保有していることを2003年3月20日開戦の根拠に掲げていたにも関わらず該当する兵器はついに発見されなかった。独仏等の欧州各国が米国を批判し対米関係が決裂する中、唯一英国のみが米国を支持した。 世界中から批判を受けたブッシュ米大統領は、ブレア首相の要請により、2003年11月に米大統領として第二次世界大戦後初の国賓として英国を訪問することとなった。エリザベス2世は即位後3回、国賓として訪米しており、戦後の英米関係が対等ではないことを象徴していた。ブッシュ米大統領の訪英は成功し、翌年の大統領選挙で再選を果たすと、2007年に訪米した女王を出迎えた。 2010年7月6日、エリザベス2世は国連総会で、53年ぶり2回目の演説を行い、国際外交の生き証人として尊敬を集めた。 2003年6月24日、訪英したプーチン露大統領と 2007年5月7日、訪米時、ブッシュ大統領夫妻と女王夫妻 訪米時、ブッシュ大統領と杯を交わす女王 2009年撮影、オーストラリア女王としてのエリザベス2世(オーストラリア勲章(英語版)を佩用)
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