フィレンツェ追放とは? わかりやすく解説

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フィレンツェ追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 04:02 UTC 版)

ダンテ・アリギエーリ」の記事における「フィレンツェ追放」の解説

13世紀当時北部イタリアは、ローマ教皇庁勢力神聖ローマ帝国勢力対立し各自都市はグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)に分かれて反目しあっていた。フィレンツェはグェルフィ党に属しており、ダンテもグェルフィ党員としてフィレンツェ市政参画していくようになった1289年には、カンパルディーノの合戦にて両党の軍勢覇権争い血みどろ戦い繰り広げた。この時ダンテもグェルフィ党の騎兵隊一員として参加している。その体験『神曲』地獄篇第22歌中に生かされており、凄まじい戦闘光景地獄の鬼と重ねられている。 グェルフィ党はこの合戦辛くも勝利をおさめたが、内部対立から真っ二つ割れてしまった。教皇派中でもフィレンツェ自立政策掲げ富裕市民から成る「白党」と、教皇強く結びつこうとする封建貴族支持の「黒党」に分裂、両党派対立したのである。小貴族家柄であるダンテは白党に所属し、のちに百人委員会などの要職に就くようになった当初市政政権握ったのは白党で、1300年には白党の最高行政機関プリオラート構成する三人統領(プリオーレ)が選出されダンテもこの一人任命された。 しかし、同時に黒党と白党の対立激化して、その翌年1301年には黒党が政変起こして実権握りフィレンツェは黒党の勢力となった当時ダンテ教皇庁特使として派遣されフィレンツェ市外にいたが、黒党の天下となったフィレンツェでは白党勢力に対す弾圧始まり幹部追放された。ダンテ欠席裁判教皇へ叛逆公金横領の罪に問われ市外追放罰金の刑を宣告された。ダンテはこの判決不服として出頭命令応じず、罰金支払わなかったため、黒党から永久追放宣告を受け、再びフィレンツェ足を踏み入れれば焚刑処されることになった。こうしてダンテ長年にわたる流浪の生活始まった以来ダンテ二度と故郷フィレンツェ足を踏み入れることはなかった。 政争敗れてフィレンツェ追放されダンテは、北イタリアの各都市流浪し政局転変画していた。その中で方針違いから白党の同志とも袂を分かち、「一人一党」を掲げる。この体験ダンテにとって非常に辛いものであり、『神曲』中にも、「他人パンのいかに苦いかを知るだろう」、と予言の形をとって記されている。ダンテ執筆活動はこの時から本格的に始まり『神曲』や『饗宴』、『俗語論』、『帝政論』などを著していった。

※この「フィレンツェ追放」の解説は、「ダンテ・アリギエーリ」の解説の一部です。
「フィレンツェ追放」を含む「ダンテ・アリギエーリ」の記事については、「ダンテ・アリギエーリ」の概要を参照ください。

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