フィロキセラと南オーストラリア州の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 20:58 UTC 版)
「オーストラリアワイン」の記事における「フィロキセラと南オーストラリア州の台頭」の解説
1863年にフランスで初めて確認されたフィロキセラは、1875年にオーストラリアにも到来し、1870年代には一部の地方で流行した。ビクトリア地方メルボルン近郊のジロングで発見され、ラザグレンやゴールバーン・ヴァレー(英語版)を含むビクトリア地方のワイン産業に決定的な打撃を与えた。ニューサウスウェールズ地方の一部でもフィロキセラが発見されたが、州間の検疫制度によって他州では被害を免れた。1901年にオーストラリア連邦が成立すると、州間の取引時に発生していた関税が撤廃されたことで、オーストラリアのワイン市場は拡大した。安価な南オーストラリア州産のワインが各州に流入。フィロキセラの蔓延と合わせて、それまでオーストラリアのワイン産業をリードしていたビクトリア州は停滞を余儀なくされた。この時期にはより巨大なワイナリーが誕生しており、マクウィリアムス、ペンフォールズ、セッペルトなど、今日も名声を得ている老舗ワイナリーのいくつかが設立されている。 20世紀初頭には南オーストラリア州がオーストラリア産ワインを主導する位置に立ち、特にバロッサ・ヴァレーはオーストラリア最大のテーブルワイン産地に成長した。マレー川の最下流部にある南オーストラリア州のワイン産地では他州とは違って灌漑設備が導入され、ブドウの他にもプラムやオレンジなどの果樹が栽培されるようになっている。 この頃にイギリスに向けて輸出されるワインは酒精強化ワインがほとんどであり、国内の需要も甘口のワインや酒精強化ワインの比率が高まった。第一次世界大戦後にはイギリスとともに戦った帰還兵がブドウ栽培地域に入植し、オーストラリア政府は1924年に輸出奨励金制度を設けて輸出を促進したが、生産過剰などの影響でワインの価格が下落し、多くのブドウ畑が崩壊している。1925年にはイギリス政府が大英帝国内産ワインの優先的な輸入を義務付け、オーストラリアの酒精強化ワイン業界を刺激した。1921年にはイギリス向けの輸出量が244万リットルだったが、1927年には1590万リットルにまで飛躍的に増加している。1929年からの世界恐慌などに影響され、1927年に9300万リットルだった総生産量は1931年には5950万リットルにまで落ち込んだが、第二次世界大戦が開戦すると再び輸出量が増加しはじめ、オーストラリア国内のワイン消費量も伸びた。1900年代初頭から第二次世界大戦の終わりまで、オーストラリア大陸のワイン生産者は干ばつ、害虫フィロキセラ、経済苦境などの苦難を経験した。
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