ファルマス子爵の専属騎手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/02 06:57 UTC 版)
「フレッド・アーチャー」の記事における「ファルマス子爵の専属騎手」の解説
第6代ファルマス子爵 (en) は、高潔な人物として知られていた。彼はもともと牧師の息子だったが、たまたま5代ファルマス卿が後継者がないまま死去したために、親戚として爵位を襲名することになった。弁護士でもあるファルマス卿はじゅうぶんな資産にも恵まれており、道徳と経済との理由で、賭博に対しては厳しい考え方の持ち主だった。 ファルマス卿はケントに所有する城に牧場を拓き、競走馬の生産を行なった。ファルマス卿は競馬で優れた能力を示した牝馬だけを繁殖に用いることで、特筆すべき優秀な生産者となった。10年ほどの間に自家生産馬で何回か馬主ランキングの首位になった。1874年にアーチャーが初めてクラシックレースに優勝した後、ファルマス卿はアーチャーを年間100ポンドの契約で専属騎手に迎えた。ファルマス卿の生産馬は名調教師のマシュー・ドーソンに預けられ、アーチャーが騎乗した。アーチャーのダービー初優勝のシルヴィオもファルマス卿の持ち馬で、このほかアーチャーが勝った大レースの半数以上は、ファルマス卿の所有馬によるものだった。 ベンドアで2度めのダービーに勝った翌年(1881年)、アメリカからイロコイ(Iroquois)という馬が、イギリス競馬界に挑戦してきた。イロコイはアメリカのペンシルヴァニア生まれのサラブレッドで、タバコ業で財を成した大富豪、ピエール・ロリヤールの持ち馬だった。イロコイは2000ギニーで2着に敗れたが、このレースで別の馬に騎乗していたアーチャーは、イロコイが優れた競走馬であるとみた。ロリヤールの側では、ダービーに勝つためにイギリスで最高の騎手を乗せたいと考え、当時のチャンピオンジョッキーだったアーチャーに騎乗依頼を出した。ファルマス卿もこの年のダービーに出走馬を持っていたが、自分の専属騎手であるアーチャーがイロコイに乗ることを許した。アメリカでは、フレッド・アーチャーが騎乗することになったのでイロコイの勝利は確実だと報道するものもいた。アーチャーはダービーで堅実な騎乗をみせ、クビ差でイロコイを勝利に導いた。アメリカ産馬がイギリスのダービーに優勝するのは歴史上初めてのことだった。イロコイの勝利は『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面を飾り、『ニューヨークヘラルド』紙は特集記事を組んだ。ロリヤールはダービーの賞金の半分ほどをアーチャーに与えた。 1883年、アーチャーはファルマス卿のガリアード(Galliard)で2000ギニーに勝ち、ダービーに駒を進めた。この年のダービーは素晴らしい天候に恵まれ、皇太子夫妻を筆頭に多数の王室関係者も臨席した。ガリアードはダービーの本命だった。このレースにはハイランドチーフ(Highland Chief)という人気のない馬が出走していたが、ハイランドチーフは、アーチャーの実兄であるチャールズ・アーチャーの調教馬で、チャールズ自身、ハイランドチーフの馬券に財産をつぎ込んでいた。 最後の直線で、ガリアード、2番人気のセントブレーズ(St. Blaise)とハイランドチーフの3頭の叩き合いになり、クビ差(またはアタマ差)でセントブレーズがハイランドチーフを抑え、半馬身遅れてガリアードが3着になった。すぐに、アーチャーが兄のハイランドチーフを勝たせるために八百長をやって、ゴール前でガリアードを故意に抑えたのだという疑惑が巻き起こり、新聞はアーチャーに対する非難で持ちきりになった。実際、兄のチャールズは勝ったセントブレーズとハイランドチーフの馬券を買っていた。ハイランドチーフが実際にわずかにセントブレーズに先着していたが、アーチャー兄弟をよく思っていなかった決勝審判がセントブレーズが勝ったと判定したのだ、と唱える者もいた。 ファルマス卿はこの醜聞によって、競馬から手を引くことを決断し、アーチャーとの契約を破棄して所有馬と牧場を売却した。アーチャーは、金に意地汚い「The Tin Man」(「ブリキ職人」「銭職人」「ブリキ屋」)と揶揄された。アーチャーは生涯で5回イギリスダービーに優勝するが、このダービーでの八百長がなければ6回勝っていただろうと言われている。
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