パリ - シュルレアリスム
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「ヴィクトル・ブローネル」の記事における「パリ - シュルレアリスム」の解説
翌25年に渡仏し、パリに数か月滞在した。パリでは前年にシュルレアリスム宣言が発表され、また、アナトール・フランスが死去すると、この権威的な存在を葬り去り、乗り越えようとするシュルレアリスムの最初の象徴的な事件である小冊子『死骸』が刊行されたばかりであった。この運動の現場を目撃したブローネルは、ブカレストに戻ると、(ドイツ)表現主義、ロシア構成主義、ダダイスムなどの前衛芸術運動に参加し、これらの運動の機関誌であり、次いでシュルレアリスム運動の機関誌ともなった『ウヌ (Unu)』(1928年創刊)に寄稿した。1930年にマルギット・コスと結婚(1939年に離婚)。同年に再び渡仏し、パリで同郷人のコンスタンティン・ブランクーシのほか、イヴ・タンギー、アルベルト・ジャコメッティに出会い、当時、タンギーとジャコメッティが住んでいた14区ムーラン・ベール通り(フランス語版)のアパートに部屋を借りた。1931年に代表作《眼球を摘出した自画像》を完成。偶然にもこの7年後に左目を失うことになる(後述)。また、イヴ・タンギーを介してジョルジョ・デ・キリコとアンドレ・ブルトンに出会い、シュルレアリスムに参加。1933年に(アンデパンダン展(独立美術家展)をもじった)第4回シュランデパンダン展(超独立美術家展)に出展。1934年に、ピエール画廊(画商ピエール・ローブ(フランス語版)は写真家ドゥニーズ・コロン(フランス語版)の兄)で、パリで最初の個展が開催され、図録(カタログ)の序文をブルトンが執筆した。ブルトンは特に、アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』から着想を得、これを当時欧州で台頭した独裁者として形象化した不気味な人物像『K氏の奇妙な事例』を絶賛した。同じ頃、ピカソ、バルテュス、ヴィフレド・ラムらとも交友を深め、また、ニューヨーク近代美術館など他国で開催されたシュルレアリスム展にも出展した。 経済的な理由により、ルーマニアに帰国。短期間だが共産党に入党するが、鉄衛団(ファシズム・反ユダヤ主義運動)が起こり、ユダヤ人の前衛芸術家は、ルーマニアの伝統である古典的な美の規範から逸脱し、「ユダヤ人のニヒリズムの精神」を表現していると批判されて(「退廃芸術」参照)、1938年、フランスへの亡命を決意した。
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