パリコレデビュー 〜 資生堂専属モデル契約
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「山口小夜子」の記事における「パリコレデビュー 〜 資生堂専属モデル契約」の解説
京浜女子大学横浜高等学校、下赤塚に住み杉野学園ドレスメーカー女学院に通う。卒業後、1971年にプロのモデルとしてデビューし、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集める。1959年にルイ・フェロー(英語版)に見い出されてアジア系モデルとして初めてパリコレクションに起用された松田和子、1960年にピエール・カルダンに見い出された松本弘子に続き、1972年にパリコレクションに起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演した。 彼女は1960年代にパリコレクションで活躍した松田和子や松本弘子のような大きな目でキュートな顔立ちのモデルとは違い、切れ長の目と黒髪のおかっぱ髪で登場し日本人ブームを起こした。白い肌に切れ長の目の美しさを作り出す繊細なアイライン、高い位置のチーク、くっきり縁取った赤いリップによる彼女のエキゾチックな顔は、ヨーロッパで熱狂的に支持され、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が欧米のブティックを席巻した。なお現在でもアナスイニューヨーク店で使用されている。 1973年から1986年まで、資生堂のモデルとして専属契約を結び「美」の普遍的イメージを国内外に発信していくことになる。1973年の『シフォネット』のポスターは、ハーフモデル全盛の時代に、黒髪おかっぱのいかにも「日本人らしい」モデルの登場を鮮烈に印象づけ、時代の転換点を体現した。 モデルとして活動しながら、ファッションデザインや服飾品のプロデュースも幾度となく担当。1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれた。
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