パリコレデビュー 〜 資生堂専属モデル契約とは? わかりやすく解説

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パリコレデビュー 〜 資生堂専属モデル契約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 02:35 UTC 版)

山口小夜子」の記事における「パリコレデビュー 〜 資生堂専属モデル契約」の解説

京浜女子大学横浜高等学校下赤塚住み杉野学園ドレスメーカー女学院に通う。卒業後、1971年プロモデルとしてデビューし、高田賢三山本寛斎ショー注目を集める1959年にルイ・フェロー(英語版)に見い出されアジア系モデルとして初めパリコレクション起用され松田和子、1960年ピエール・カルダンに見い出され松本弘子続き1972年パリコレクション起用され次いでニューヨークコレクションにも出演した。 彼女は1960年代パリコレクション活躍した松田和子や松本弘子のような大きな目キュートな顔立ちモデルとは違い切れ長の目黒髪のおかっぱ髪で登場し日本人ブーム起こした。白い肌に切れ長の目美しさ作り出す繊細なアイライン、高い位置チークくっきり縁取った赤いリップによる彼女のエキゾチックな顔は、ヨーロッパで熱狂的に支持され、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形欧米ブティック席巻した。なお現在でもアナスイニューヨーク店で使用されている。 1973年から1986年まで、資生堂モデルとして専属契約を結び「美」普遍的イメージ国内外発信していくことになる。1973年の『シフォネット』のポスターは、ハーフモデル全盛時代に、黒髪おかっぱいかにも日本人らしい」モデル登場鮮烈に印象づけ、時代転換点体現したモデルとして活動しながら、ファッションデザイン服飾品プロデュース幾度となく担当1977年には、雑誌ニューズウィーク』の「世界トップモデル6人」にアジア人初め選ばれた。

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