バタイユ -『ドキュマン』誌
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「ミシェル・レリス」の記事における「バタイユ -『ドキュマン』誌」の解説
一方、すでに1924年頃から民族誌学の講義を受講し始め、1929年には、人類学者のリュシアン・レヴィ=ブリュール、マルセル・モース、ポール・リヴェ(フランス語版)がパリ大学で開設した民族学研究所(フランス語版)でモースに師事した。 レリスがシュルレアリスムの運動から脱退したのも1929年であり、また、同じ年の4月からバタイユとトロカデロ民族学博物館(現人類博物館)の副館長ジョルジュ・アンリ・リヴィエール(フランス語版)を中心に編集された『ドキュマン』誌の編集事務局を務めた。『ドキュマン』誌は考古学、美術、民族誌学の学術雑誌であり、民族学者マルセル・グリオールも編集に関わっていた。『ドキュマン』誌は翌1930年の第15号をもって終刊となったが、バタイユにとってもレリスにとっても後の著作につながる重要な活動の場であり、レリス同様にシュルレアリスムを離れた作家や詩人が参加していた。実際、バタイユが1930年にブルトンへの反論として出版した小冊子『死骸(英語版)』には20人の元シュルレアリストが参加し、このうちレリス、ランブール、デスノス、ジャック・バロン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)は『ドキュマン』誌の寄稿者であった。これは、1924年のアナトール・フランスの葬儀の際にブルトン、アラゴン、エリュアール、フィリップ・スーポーらが、アナトール・フランスというフランス文学の権威を葬り去り、乗り越えようとするシュルレアリスムの象徴的な行為として出版した『死骸』のパロディーであり、同じ『死骸』というタイトルの小冊子に、『シュルレアリスム革命』誌に掲載されたブルトンの写真に茨の冠をモンタージュした写真(ジャック=アンドレ・ボワファール作)を掲載し、その下にシュルレアリスムの自動記述をもじって「自動預言者」と書かれ、表題「死骸」の下には、1924年の『死骸』においてアナトール・フランスに対して書かれた「死んだ後まで、この男の死骸を残しておくことはない」という言葉がブルトンに対する言葉としてそのまま書き写されている。この小冊子にバタイユは「去勢されたライオン」と題する記事を掲載し、シュルレアリスムを「去勢された思想」として批判したのである。
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