『幻のアフリカ』
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「ミシェル・レリス」の記事における「『幻のアフリカ』」の解説
1933年2月にアフリカでの調査を終えて帰国。美術雑誌『ミノトール(フランス語版)』や文芸誌『新フランス評論』に寄稿し、また、元共産党員で歴史学者・評論家のボリス・スヴァーリン(フランス語版)が創設した「民主共産主義サークル(フランス語版)」の会員として、彼が主宰する『社会批評』誌にも寄稿した。『社会批評』誌は『ドキュマン』誌の終刊後にバタイユが批評活動を継続していた雑誌であり、レリスは以後、再びバタイユと活動を共にすることになる。 翌1934年にトロカデロ民族学博物館のサブサハラ・アフリカ部門担当となり、1937年にこの後身としてポール・リヴェによって設立された人類博物館でも引き続き1948年まで担当した(なお、ポール・リヴェを会長として1934年に結成された反ファシズム知識人監視委員会にも参加している)。1934年はまた、アフリカでの調査に基づく『幻のアフリカ』を発表した年でもある。本書は民族誌とはいえ、必ずしも学術的なものではなく、レリスの個人的な意見、さらには夢の記述や性的な告白すら含む破格的なものであった。なお、『幻のアフリカ』は発禁処分を受けることになるが、これは1941年10月のナチス・ドイツ占領下でのことであり、ドイツ軍による言論・思想の弾圧により、1940年9月28日に出版社労働組合と占領当局との間で検閲協定が締結された 後のことである。
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