バプテストとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 18:27 UTC 版)
「ロジャー・ウィリアムズ」の記事における「バプテストとの関係」の解説
1638年、マサチューセッツから何人かの洗礼を信じるキリスト教徒が迫害に遭ってプロビデンスに移動してきた。おそらく彼らの大半はウィリアムズがマサチューセッツに居るときにその影響を受けていたが、数人はイギリスを離れる前に幼児洗礼に反対する人に影響を受けた可能性がある。 ジョン・スミス、トマス・ヘルウィスおよびジョン・マートンが1609年にバプテスト派を創った者達であり、オランダからイギリスに戻った後でこの集団によって生み出された良心の自由を唱道する多くの文献を著した。ウィリアムズは、イギリスを離れた後の1633年にロンドンで興されたカルヴァン主義反幼児洗礼集団のことについてどうしても噂を聞くことになった。 しかし、ウィリアムズはマサチューセッツからの追放以前は反幼児洗礼の考え方を採り入れなかった。というのも反幼児洗礼の考え方はウィリアムズに敵対する者によって挙げられたウィリアムズの非難項目に入っていなかったからである。マサチューセッツのウィンスロップ知事は、ウィリアムズの再洗礼派の考え方がアン・ハッチンソンの姉妹で信仰至上主義者のキャサリン・スコットの影響によるものとしていた。反幼児洗礼主義者としてプロビデンスに来たエゼキエル・ホリマンがスコット夫人とともにウィリアムズに洗礼を信じることの重要さを吹き込んだ可能性がある。 1639年3月頃、ウィリアムズはホリマンから洗礼を受け即座にホリマンと他の11人を洗礼した。このようにして創られたバプテスト教会はアメリカで最初のバプテスト教会として今日も残っている。ほぼ同じ頃に新世界における信教の自由についてウィリアムズと同じ立場に立ったジョン・クラークがニューポートでバプテスト教会を創った。プロビデンスとニューポートでどちらが「最初の」バプテスト教会を建てたのか何世紀も議論となったが、正確な記録に欠けているため結論が出ていない。そのためにウィリアムズとクラークの二人がアメリカにおけるバプテスト信仰の創設者であるとされている。 ウィリアムズはプロビデンスの小さな教会に数ヶ月しか留まらなかった。背教行為で失われていた儀式は特別の神聖な任務無くして有効に復活させられないと確信するようになり、出発に際して次のような声明を残した。 この世で規則通りに作られたキリストの教会は無いし、また教会の儀式を監督するように資格付けられた者もいない。新しい使徒が教会の偉大な首長によって派遣されるまでそれらは有り得ない。使途の来迎を私は求めている。 ウィリアムズは「求める者」すなわち「脱退者」の姿勢を取り、キリストの真実を伝えることに常に信仰深く活動的であったが、どのキリスト教会も真の教会のあらゆる印を得ていないと、満足することがなかった。ウィリアムズはバプテストとの友好的な関係は続け、他の多くの事と同様に幼児洗礼に反対することに同意していた。 ウィリアムズの宗教的また教会に対する態度は次の文章に良く表されている。 まことの宗教、つまりキリストに結ばれてまことの神を礼拝するということには、何よりも先に、二つの原則と基礎づけがあります。不信仰な行いからの悔い改め、そして神への信頼です。バプテスマまたは洗礼、そして按手についての教理のおかげで、礼拝を整え執り行うことは当面はできるでしょう。けれども、その前提は、不信仰な行いからの悔い改め、そして神への信頼なのです。これらが欠けてしまったら、英国やその他キリストの民と告白する何百万もの人々すべてが滅びへと向かうことでしょう。悔い改めという救いにつながる行いと、真実に神に立ち帰るということがあとまわしにされたままなのに、この人々は、礼拝の秩序という名の下で、洗礼そして神との交わりの場に、公の権威によって引き出されることになってしまうからです。
※この「バプテストとの関係」の解説は、「ロジャー・ウィリアムズ」の解説の一部です。
「バプテストとの関係」を含む「ロジャー・ウィリアムズ」の記事については、「ロジャー・ウィリアムズ」の概要を参照ください。
- バプテストとの関係のページへのリンク