バプテスト入信と論争
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「ウィリアム・キッフィン」の記事における「バプテスト入信と論争」の解説
1616年誕生。1693年に起こした手稿『回想録』で書いてある前半生は、9歳の1625年にロンドンで流行したペストで両親を失い、13歳から7年間手袋製造工の徒弟奉公で過ごし、1638年に自分と同じ教会に通うハンナという女性と結婚、同年にリヴァリ・カンパニーの中でも最大級の鞣革商人組合(英語版)の会員となった。この時期にジョン・リルバーンと知り合ったと思われ聖書討論に参加、ピューリタンへの回心に目覚め、ジョン・グッドウィン(英語版)らの説教を聞いたり著作を読んで信仰熱心な職人になり、仲間も誘って聖書討論を開いたという。また独立派(会衆派教会)あるいは分離派教会の入信を経てバプテスト教会を立ち上げたと推定されるが、入信時期と設立の経緯およびどの教会に入ったかは定かでない。 第一次イングランド内戦の最中の1643年3月頃にバプテスマ(浸礼での洗礼)を採用、以後亡くなる1701年までの58年間、海上貿易に従事しながらパティキュラー・バプテスト教会の牧師として活動することになる。教会は迫害で転々として、最終的に落ち着いた住所名からデヴォンシャー・スクエア・バプテスト教会と名付けられた。1640年12月と1642年3月に秘密集会を開いた件で迫害を受け、1度目は暴徒の投石で怪我を負い、2度目は裁判にかけられて投獄され、ブルック男爵(英語版)ロバート・グレヴィルの介入で釈放された。この前後の1641年にリルバーンのパンフレット出版を手伝っている。 1644年10月に『第一ロンドン信仰告白(英語版)』が出版、キッフィンを含めたロンドンの7つのパティキュラー・バプテスト教会の代表が署名した(キッフィンは筆頭署名者)。イングランド国教会の幼児洗礼を否定し、個人の信仰告白に基づく浸礼を組織の基礎に置くパティキュラー・バプテストの初めての信仰告白であるこの書物は、キッフィンが発起人かつ主要な著者であったとされ、浸礼執行者を誰にするかで生じた信者間の論争を念頭に置き、『告白』の第41条に浸礼執行は平信徒説教師が行うことを提唱、1646年に出された『告白』の修正版では国家による良心の自由を義務として掲げている。
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