テュルク系民族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:33 UTC 版)
「テュルク系民族」も参照 ウイグル語はテュルク諸語であるため、ウイグル人はテュルク系民族に属する。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、回鶻、カルルク、バスミル、沙陀族などを一括りにした呼称」と定義される。 歴史学者の森安孝夫の話によれば、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであったとしている。唐代末期にモンゴリア〜アルタイ地域を本拠としていた回鶻(ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や天山山脈一帯からタリム盆地へ移動する。 それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者がテュルク語化した。なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である。 こうした言語からの民族の定義ではなく、近代的民族概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない。たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化したタリム盆地周辺のトルコ(テュルク)人や、カラハン朝下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地であるオアシス都市ごとに自己認識していた(「トルファン人」、「クチャ人」、「カシュガル人」、「サマルカンド人」、「ブハラ人」など)。このようにタリム盆地周辺のオアシス定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「ムスリム」、異邦人に対しては「イェルリク(土地の者)」と自己を呼称していた。 20世紀に入って、ロシア革命により成立したソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。 トルキスタンでも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。当時、トルキスタンには、1881年のイリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らは東トルキスタンの政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される(後述)。 森安の話によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として、「新ウイグル」は「古ウイグル」とは異なるとしている。 この呼称は中華民国統治下の新疆省にも知られるようになり、1934年、盛世才政権は従来当局が用いていた「纏回(てんかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている。
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