チャールズ・ヴァン・ドーレンの台頭と人気
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「21 (テレビ番組)」の記事における「チャールズ・ヴァン・ドーレンの台頭と人気」の解説
ハーブ・ステンペルは「21」にふさわしい勝者ではなかった。ステンペルの唯一の真価は、敗者でこそ発揮されるものなのだ。となると、正義の味方、勇敢なヒーローを探さねばならなかった。そこで、探し出したのが、チャールズ・ヴァン・ドーレンであった。彼は、勝者にふさわしい頭脳をもちながら、自分の成功にちょっと戸惑っているような控えめなところがあるのだ。親族が有名であり、本人もほとんど完璧といえる人物だとエンライトの副プロデューサーのアル・フリードマンは思った。そこで、プロデューサーはヴァン・ドーレンを口説きにかかったが、彼は、「自分は教えることがとても好きで、そのほかに望みはない、ただの遊びにしても、テレビに出ることなどまったく興味がない」と言った。そこで、フリードマンは「アメリカの教育界と教師たちをいかに助けることになるかを強調しはじめた」 「21」はあくまでもショービジネスであり、真実を追求する必要はない。ヴァン・ドーレンは出場を了承した。当初は、堂々とプレイしたいと申し入れたが、「21」では堂々とプレイしている者は誰もいないと説明された。 ハーブ・ステンペルの幕切れは、1956年12月5日の夜にやってきた。エンライトの台本に従って、ステンペルは完璧に正解が分かっている問題に誤った回答をし、ヴァン・ドーレンに敗退する手筈になっていた。ステンペルは指示どおりに演じ、結局、ヴァン・ドーレンは危険な道を突っ走ることになったのだ。ヴァン・ドーレンは、やがて15週勝ち抜きの新記録をつくり、一躍全米のヒーローとなった。 「21」はチャールズ・ヴァン・ドーレンが登場すると急速に視聴率を延ばし、1957年6月のARB視聴率調査では、31.5パーセントで第4位に躍進した。 登場回数を重ねるにつれ、ヴァン・ドーレンは自らの行為に嫌気がさし、降板したい思いを募らせていたが、こうした葛藤がいくぶん表にも滲み出ていたはずで、これがさらに人々の心をひきつけたのだった。 ヴァン・ドーレンは、自らも不正事件に加担していた事実を最終的に認めてから数週間後、「私はある役柄を演じてきた。この二、三年だけのことではない。十年も十五年も演じてきた、たぶん生まれたときからずっとね。」と語っている。実際、何千万という人々に名を知られ、その顔がタイム誌の表紙を飾るまでになるのである。 一方、ステンペルは、告発記事を売り込み、ニューヨークのある新聞に報じられた。そのとき、エンライトは、自分たちの圧倒的な成功が、テレビ以外のメディアの強烈な反撥を買っていたことにも悟らされた。また、「21」をめぐる一連の出来事は50年代特有の現象だった。10年後にあの番組を登場させていたとしても、ある程度の成功は収めただろうが、より小さい規模だったはずである。その理由は、自分たちはテレビという新しい道具の真価を知らずに弄んでいた単なるラジオの延長としか思わなかった。テレビが家庭で画面を見詰めるものたちに圧倒的な力で迫り、番組に出演する者たちを食い潰すものであるとは、少なくとも当時は気づかなかったからである。また、テレビの迫真力に誰もが馴れ切ってしまっていたはずとだ指摘されている。 やがてクイズショー・スキャンダルの調査は、下院法管理委員会に回された。下院による調査の焦点は、次第にアメリカ中に魅了していった青年、ヴァン・ドーレンに絞られてきた。彼は一貫して無実を申し立て、いかなる助言も受けていなかったと主張しつづけた。
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