チャールズ若僭王への援助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 01:10 UTC 版)
「フローラ・マクドナルド」の記事における「チャールズ若僭王への援助」の解説
1746年6月のカロデンの戦いに敗れたチャールズ・エドワード・ステュアート(チャールズ若僭王)は数人の副官とともにアウター・ヘブリディーズのベンベキュラ島に落ち延びたが、フローラはちょうど同時期にベンベキュラ島を訪れていた。アントリム州出身で若僭王に同伴していたコン・オニール大尉(Conn O'Neill)はフローラの遠戚であり、彼はフローラに助けを求めた。 フローラの出身氏族であるスリートのマクドナルド氏族(英語版)は1745年ジャコバイト蜂起に参加しておらず、ベンベキュラ島もフローラの継父ヒュー率いる政府側の民兵隊が支配していたが、フローラはこの伝手があったおかげでスコットランド本島への渡航許可を申請できた。ただし、フローラはもし捕まった場合には家族も影響を受けることを恐れ、一時は躊躇した。もっとも、後の証言ではヒュー自らが若僭王に捜索隊の目から逃れるための隠れ場所を教えたとされ、フローラが実際に冒した危険はそれほどのものではない可能性もある。 そして、フローラには使用人2人と船員6人を含めるスコットランド本島への渡航許可が与えられ、その中には若僭王扮する「ベティー・バーク」(Betty Burke)というアイルランド人使用人も含まれた。6月27日、一行はスカイ島キルブライド(英語版)近くのモンクスタット(Monkstadt)にあるアレクサンダー(フローラの父のいとこ)の邸宅近くで上陸した。アレクサンダーが不在だったため、その妻マーガレットは家令とともに若僭王に宿を与えた。家令は若僭王に対し、変装で逆に怪しく見えたためそれを外すよう助言したという。翌日、若僭王はスカイ島ポートリー(英語版)から出港してラーゼイ島(英語版)に渡ったが、フローラはスカイ島に残り、以降2人が再会することはなかった。 2週間後、船員たちがイギリス政府に拘留され、自白した。フローラとマーガレットの家令も逮捕され、ロンドン塔に投獄されたが、マーガレットがスコットランド民事控訴院長(英語版)ダンカン・フォーブズ(英語版)に掛け合ったおかげで「国王の使者」(King's Messenger)の監視のもとロンドン塔外で生活することができ、1747年6月恩赦法で完全に釈放された。当時の上流社会はフローラに合計1,500ポンドを寄付し、王太子フレデリック・ルイスも寄付者の1人だった。フローラは慈善行為として若僭王を助けたと王太子に述べ、たとえ慈善行為の対象が王太子だったとしても同様の行動をしただろうとも述べたという。 1750年11月6日、フローラは28歳でイギリス陸軍大尉アラン・マクドナルド(Allan MacDonald、1722年 – 1792年、マーガレットの家令の長男)と結婚した。2人はフロディガリー(英語版)に住み、アランの父が1772年に死去するとその遺産を継承した。作家サミュエル・ジョンソンは1773年にスカイ島を訪れたとき、フローラに会ったが、彼女を「柔らかな容貌、穏やかな物腰、優しい魂、エレガントな態度を有する女性」(a woman of soft features, gentle manners, kind soul and elegant presence)と形容した。また、キルミュア(英語版)にあるフローラの記念碑の碑銘もジョンソンが書いたものだった。
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