チャールトン・コミックスとDCコミックス
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「スティーヴ・ディッコ」の記事における「チャールトン・コミックスとDCコミックス」の解説
ディッコはチャールトンでの仕事を再開した。ページ単価は安いが、制作者の自由度は大きい会社だった。同社ではブルービートル(英語版)(1967年 - 1968年) やクエスチョン(1967年 - 1968年)などのキャラクターを手がけ、かつて1960年に共同制作したキャプテン・アトムにも復帰した(1965年 - 1967年)。ほかにも1966年から翌年にかけてウォレン・パブリッシング(英語版)のホラー誌 Creepy や Eerie で、アーチー・グッドウィン(英語版)などの原作を受けて、主にインクウォッシュの技法で16本の短編を描いた。 1967年、自身のオブジェクティビズム思想を完璧に体現したキャラクターであるミスターA(英語版)を作り出し、ウォーリー・ウッド(英語版)の独立系コミック witzend 第3号に登場させた。犯罪に対して強硬な姿勢は論議を呼んだが[要出典]、1970年代までミスターAのストーリー作品と1ページ作品を描き続けた[要出典]。その後2000年と2009年にもミスターAを描いている[要出典]。 1968年にDCコミックスに移り、編集者マリー・ボルチノフ(英語版)の下、『ショーケース(英語版)』第73号(1968年4月)でドン・セガールとともに新キャラクタークリーパー(英語版)を制作した。DCの重役で原作者でもあったポール・レヴィッツ(英語版)の所見では、「クリーパー」はディッコの作画により「そのときDCが出していたどんなタイトルとも似ないものになった」という。『ショーケース』第75号(1968年6月)では、ライターのスティーヴ・スキーツとともにホーク&ダブ(英語版)のコンビを制作した。このころ、ウォーリー・ウッドが成人読者を対象に刊行したインディペンデント・コミックの草分け Heroes, Inc. Presents Cannon(1969年)で、ウッドのインクと原作により巻頭作品の作画を行った。 DCでの活動は短期で終わり、クリーパーの個人誌 Beware the Creeper 全6号(1968年6月 - 1969年4月)を任されるも、最終号の半ばでDCを離れた。その理由は明かされていない。しかしディッコはDCで活動している間に、チャールトンの編集局員だったディック・ジョルダーノ(英語版)を同社に推薦した。ジョルダーノは後にDCトップのペンシラーとなり、さらにインカー、編集者、そして1981年には編集長にまでなった。 DC離脱から1970年代の半ばまではチャールトンと小出版社やインディペンデント出版社でしか仕事をしなかった。この時期チャールトンのアートディレクターだったフランク・マクローリン(英語版)はディッコについて、「ダービーの小さいホテルにしばらく住んでいた。そのころのディッコは楽天的でユーモアのセンスがある男で、色分解(英語版)担当の女性にいつもお菓子なんかの贈り物を持ってきた」と述べている。 1974年にチャールトンで E-Man 誌のバックアップ(併録作品)としてリバティベルのストーリーを描き、キルジョイを生み出した。同社でSF・ホラー誌に多数の作品を描く一方で、マーベルの発行人だったマーティン・グッドマンが新規に立ち上げたアトラス/シーボード・コミックス(英語版)ではライターのアーチー・グッドウィンとともにヒーローのディストラクターを制作し、そのタイトル全4号(1975年2月 - 8月)でペンシラーを務めた。そのうち前半の2号はウォーリー・ウッドがインクを手がけた。Tiger-Man の第2号と第3号でも作画を行い、Morlock 2001 第3号ではインクのバーニー・ライトソンと組んだ。
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