ダンスの採用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:19 UTC 版)
詳細は「日本女子体育専門学校 (旧制)#ダンス」を参照 ダンスは、スウェーデン体操のうちの優美体操の領域に相当し、女子に適する運動として積極的に採用した。ダンスが曲線的運動で女子に曲線美を与えることと、ダンスが民族の女性的精神の発露であると考えたからである。ダンスそのものは、トクヨのイギリス留学前より日本の体操科の授業で取り入れられており、井口阿くりによってファーストダンス(英語版)やポルカセリーズなどが持ち込まれていた。トクヨ自身、留学前の石川高女教師時代から、カドリールやレディポルカなどのハイカラなダンスを授業や運動会で実施していた。明治時代の井口やトクヨによるダンスの普及活動は、日本の学校ダンスの先駆的な取り組みであり、体操的な要素を持ったドイツの諸派のダンスを主に採用していた。留学中にはロンドンの舞踏塾に13回通塾して3人の教師から個人レッスンを受け、ホーンパイプ、スコッチリール、アイリッシュジグ、ウェルシュダンスなどの稽古に励んだほか、数校でイギリスの民族舞踊などを学んだ。 トクヨのダンスにおける功績は、ダンスの基本練習として身体練習・表現練習・リズム練習の3要素を初めて実践したことである。ダンスのレパートリーは、トクヨ自身の創作ダンスや、学生が習ってきたものに手直しを加えたものをどんどん追加していき、1924年(大正13年)頃には50種類ほどになっていた。ファーストやカドリールといった西洋式のダンスのみならず、「雨降りお月さん」や「花嫁人形」といった日本の童謡を用いたもの、木曽節や佐渡おけさといった各地の民謡を用いたものまで多様であった。ダンスに使う楽曲は、古典的な曲から当世の流行歌まで幅広く取り入れ、歌っても踊っても良い曲を揃えていた。 教え子の記憶によると、東京女高師教授時代にトクヨが教えたダンスは、時期によって異なっていた。1915年(大正4年)に入学した戸倉ハルは、「三人遊び」と題したトクヨの創作ダンスやメイポールダンス、ブラックナッグ(Black Nag)、ギャザリングピースカッツ、ロブスタージックなどのフォークダンスを習った。一方、1918年(大正7年)に入学した堀井千代鶴は、在学中にウォーキング、ホップ、ポルカ、バランス、ギャロップといった歩法しか習わなかったといい、「三人遊び」は卒業後にトクヨの体操講習会で初めて習ったと証言している。 大正時代の末期頃から、戸倉ハルと土川五郎は、舞踊愛好者との交流会を開いていた。この交流会は昭和初期になると毎週行われるようになり、体育ダンスの荒木直範・渋井二夫、日本体育専門学校(現・日本体育大学)の赤間雅彦・加藤孝吾・沢山駒次郎、女子体育家の藤村トヨ・伊沢ヱイ姉妹、美濃部タカらが出席していた。トクヨもこの交流会に参加し、出席者は女子体育の普及にはダンスが最適との共通理解が生まれた。
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