タシール知事暗殺事件
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タシール知事暗殺事件(タシールちじあんさつじけん)は、2011年1月4日、パキスタンでパンジャブ州のサルマン・タシール知事が暗殺された事件。
- ^ “「冒涜罪」批判した州知事、警護官に射殺される パキスタン”. www.afpbb.com. 2019年2月4日閲覧。
- ^ “知事暗殺の警護官を処刑、数千人が抗議 パキスタン”. CNN.co.jp. 2019年2月4日閲覧。
- 1 タシール知事暗殺事件とは
- 2 タシール知事暗殺事件の概要
タシール知事暗殺事件
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「アーシア・ビビ事件」の記事における「タシール知事暗殺事件」の解説
2011年1月4日、首都イスラマバードでサルマン・タシール知事が自らの警護官ムムターズ・カドリに銃撃され、死亡した。犯人は26発もの銃弾を知事の身体に撃ち込んだ。レーマン・マリク(英語版)内相によると、殺害の動機は「知事がイスラム教に対する冒涜罪を批判したため」とのことであった。実際、タシール知事は政治家のなかでも最も積極的にアーシア・ビビを擁護し、冒涜罪の見直しを訴えたことで、保守派や過激派の激しい怒りを買っていた。北西部の南ワジリスタンで活動するイスラム武装勢力「パキスタン・タリバン運動」の司令官は、『ニューズウィーク』誌の取材に応えて、「タシールを殺した警護官はタリバン支配地域に逃げてくればいい。われわれは口づけで出迎えるだろう」、「この問題はタシールの殺害で終わらない。一般のパキスタン人とタリバンは怒りに燃えている。その対象は、マスコミの人間や、冒涜罪の見直し運動を主導した女性議員も含まれる」とした。 翌5日、タリバンやイマームらの警告にもかかわらず、厳戒体制下の州都ラホールで行われたタシール知事の葬儀には数千人が参列した。ヒラリー・クリントン国務長官(当時)は、知事の死を「大きな損失だ」とし、「タシール知事にはパキスタンで会う機会があり、彼の寛容促進のための活動とパキスタンの今後の世代の教育活動を称えた。米国は今後もパキスタンに平和と安定性をもたらすための政府と国民の活動を支援する」と発表した。 一方で、多くのイスラム教徒が犯人を英雄視し、犯行を称賛した。パキスタンのフェミニスト・人権運動家でノーベル平和賞を受けたマララ・ユスフザイは、自著でこの件に触れて、「裁判では、法廷に現れた犯人を、法律家たちがバラのシャワーで迎えたという。さらに、亡くなった知事の通っていたモスクのイマームは、知事のために哀悼の祈りを捧げることを拒んだ。ザルダリ大統領は葬儀に参列しなかった。パキスタンはどんどんおかしくなっていく。殺人犯を花びらで讃えるなんで、どう考えてもおかしい」と語っている。 さらに、同年8月26日には、タシール知事の息子シャバズ・タシールが銃を持った男らに拉致され、以後、5年近くにわたって拘束された。拉致犯はタシールと引き換えにムムターズ・カドリの解放を求めていた(シャバズ・タシール拉致事件(英語版))。
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