バッティ少数民族相暗殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 06:52 UTC 版)
「アーシア・ビビ事件」の記事における「バッティ少数民族相暗殺事件」の解説
タシール知事暗殺事件から2か月後の2011年3月2日、パキスタンの首都イスラマバードでシャバズ・バッティ少数民族相が白昼の住宅地で射殺された。パキスタン・タリバン運動が犯行声明を発表し、イスラム教に対する冒涜罪の見直しを呼びかけていた同相への「処罰」だとした。目撃者の情報では、現場には同氏に対する「処罰」だと書かれたビラが散乱していたという。バッティ氏はパキスタンで唯一のキリスト教徒の閣僚であった。1月に『クリスチャン・ポスト』紙の取材に応じ、殺害脅迫を受けているとしながらも、タシール知事暗殺事件に触れ、護衛をつけない意思を明らかにしていた。 バチカン放送によると、バッティ少数民族相は、タシール知事暗殺事件の直後、正義と少数派擁護の推進を暴力によって止めることはできないと述べていた。教皇ベネディクト16世は、同相が殺害されたことに深い悲しみを表明し、パキスタン国民のために勇気をもって奉仕した同相を称えた。カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズは、キリスト者の安全への懸念が増大していることを指摘した。また、世界教会協議会 (WCC) のオラフ・フィクセ・トヴェイト総幹事は「パキスタンで問題になっている冒涜罪を批判したために宗教過激派から暗殺された」ことを強調した。
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