ソ連の一国社会主義
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「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「ソ連の一国社会主義」の解説
詳細は「赤軍」、「ロシア内戦」、「シベリア出兵」、「ネップ」、「ヨシフ・スターリン」、「コルホーズ」、および「五カ年計画」を参照 ロシアがドイツと講和を結ぶと、日本をはじめとする英米仏伊などの連合各国は革命の波及をおそれ、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目でロシアに軍を送った(シベリア出兵)。ロシア国内の反ボリシェヴィキ勢力もこの情勢に活気づき、各地で反革命政権が成立したが、ソヴィエト政権も赤軍をつくってこれに対抗し、内戦状態となった(ロシア内戦、1918年-22年)。しかし、外国勢力とむすびついた反革命勢力に反発する人びとは赤軍を支持、1920年には赤軍勝利は疑いない情勢となった。 内線を戦いぬくため、ソヴィエト政権は食糧を強制的に徴発して、工場の国有化を進めた。これが戦時共産主義である。ボリシェヴィキはロシア共産党と改名し、国家を指導する唯一の党となった。内戦が終結にちかづくと政府は、食料税導入と税納付後の残余農産物を自由に処分してよいことを特徴とする新経済政策(ネップ)を1921年に採用し、食糧徴発をやめ、工場の国有化も緩和した。他方でレーニンらは、1919年、モスクワでコミンテルン(第3インターナショナル)を創立し、革命ロシアの指導のもと、各国共産党をコミンテルン支部とし、世界革命を推進しようとした。そして1922年にはソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。 レーニンの死後、ヨシフ・スターリンは、一国だけでも社会主義を建設することは可能であると主張し、政敵であるレオン・トロツキーを国外追放。その後、トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された。このようにして反対派をおさえて独裁的権力を握り、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。対外政策にも変化が生じ、ソヴィエト連邦が成立した1922年にはドイツとの国交を回復し、各国も相次いでソ連を承認した。 また、スターリンは1928年から行われた第一次五か年計画で強力に重工業の建設を推進し、同時に、農民をコルホーズなど集団農場に組織する農業集団化を強行した。飢饉による犠牲者も数百万に達したといわれるが、反面では、他の諸国が不況にあえぎ政治的に混迷しているとき、生産力を向上させて一大工業国に成長していった。 ソ連邦の存在は、それまで資本主義列強によってすすめられてきた世界の一体化を否定するものであり、なかでも一国社会主義路線の確立は、世界資本主義に敵対する国家の誕生を意味していた。しかし、ソ連は第二次産業革命という経済史上の趨勢から大きく逸脱したものではなかった。市場経済ではなく国家による計画経済であり、軍需産業重視のため豊かなアメリカ的生活スタイルともかけ離れており、また、政治的民主主義も形だけのものに等しかったが、先進資本主義諸国と軍事的に競争できる産業化、あるいは国民を広汎に動員できる大衆性などの点においては20世紀の特質を備えていた。したがって、ソ連は欧米諸国や日本とは異なった手段で第二次産業革命を達成したものと捉えられ、第二次世界大戦後に独立を果たしたアジア・アフリカ諸国にとっては一種の近代化のモデルとして機能した。
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