ストコフスキーと日本
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「レオポルド・ストコフスキー」の記事における「ストコフスキーと日本」の解説
戦前の日本においては、ストコフスキーは人気指揮者の一人であった。当時日本で発売されていたストコフスキーのレコードが、「カルメン」など日本で通俗的な存在の曲目が多く、演奏家より曲目でレコードを買う傾向が強かったとされる戦前のレコード愛好家にとってはストコフスキーのレコードは「外れが少ない」レコードであった。また、近衛秀麿とも親しかった。 そのストコフスキーが日本の地を踏んだのは、1965年7月のことであった。日本フィルハーモニー交響楽団と、当時日フィルを支援していたフジテレビ系の外郭団体が招聘元であり、東京文化会館と日本武道館でコンサートを開いた。 1965年7月8日の公演(東京文化会館) バッハ:パッサカリアとフーガ ハ短調 アイヴズ:「答えのない質問」 柴田南雄:「シンフォニア」 チャイコフスキー:交響曲第4番 1965年7月13日の公演(日本武道館) バッハ:トッカータとフーガ ニ短調(ストコフスキー編) ベートーヴェン:交響曲第5番 カウエル:琴と管弦楽のための協奏曲 ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」 スーザ:「星条旗よ永遠なれ」(アンコール) この公演では、ストコフスキーは弦楽器群のチェロとコントラバスと管楽器群の位置を変えるなど、独特の楽器配置を行ったりした。また、「星条旗よ永遠なれ」の演奏では、警視庁音楽隊や在京各学校の鼓笛隊などから人員を集め、ピッコロ26、トランペット10、トロンボーン12を以って金管部分を大補強した。 一方で、武道館の公演では正力松太郎の横槍でなかなか公演許可が下りないなど苦労もあったが、一番大きな事件は読売日本交響楽団との二重契約騒動であった。これは、結果的には招聘元の外郭団体がストコフスキー招聘の成功直後に活動を停止してしまったことと、ストコフスキーがマネージャーを持たなかったことに原因があった。契約条項に「フリーの日は日フィルから干渉できない」云々という一文があったため、日フィル側は「見て見ぬふり」で読響との公演を黙認したが、結果的に認められたのは7月10日の読響公演のうちベートーヴェンの交響曲第7番の指揮のみであり(他の曲は飯守泰次郎の指揮)、他に企画されていた公演は契約条項や滞在許可の兼ね合いもあり、中止となった。 ニューヨーク時代に直接師事した日本人に、山形でのオーケストラ文化の先駆者、村川千秋、女性指揮者の久山恵子がいる。 なお、日本への招聘のためにニューヨークの自宅に赴いて面談した指揮者の渡邊暁雄に、最初に発した言葉は「近衞は元気か?」だったとされる。 アメリカ交響楽団に最初に入団した日本人ファゴット奏者の中川良平に、最初のリハーサルで"You are splendid!"(君は素晴らしい!)と叫んで駆け寄ったが、まだ英語が堪能でなかった中川が聴き取れず、"You are fired!"(お前はクビだ!)と入団早々に宣告されたと勘違いし、震え上がったというエピソードもある。 高齢となってイギリスに帰国する直前、アメリカ交響楽団での後継を探していた時に、秋山和慶の演奏を聴いて感銘を受け、楽屋を訪れて自らトロントとの兼任を要請した。
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