ジェームズタウンの救出:デラウェア卿とジョン・ロルフ
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「バージニア州の歴史」の記事における「ジェームズタウンの救出:デラウェア卿とジョン・ロルフ」の解説
1610年4月1日、デラウェア卿は開拓者を救い植民地の指導者となるために、150名の開拓者と新たな食料、物資を載せてジェームズタウンに向けて出発した。6月に新大陸に到着しジェームズ川を遡っていくと、マルベリー島近くで川を下ってくる2隻の船に会った。シーベンチャー号の運命を知り、その生き残り達がイギリス船の到着を見たときはジェームズタウンで行ってきたことをデラウェア卿が知って驚いたのは疑いない。 デラウェア卿は開拓者達全てが植民地を放棄しようとしているのを知っても驚かなかったと思われる。その代わりに新しい開拓者や物資とともにバージニアに留まり開拓を続けることを要求した。デラウェア卿が到着したタイミングはジェームズタウンを永久に去ろうと期待していた人々にとっては失望であったに違いない。しかし、開拓者達もデラウェア卿もバージニア経済の将来の鍵を握っている男が彼らと共にジェームズタウンに戻ったことを知らなかった可能性がある。 デラウェア卿は植民地での立場を確立すると、インディアンに対して第一次アングロ・ポウハタン戦争と呼ばれる武力を使った作戦計画を始めた。その指導の元でサミュエル・アーゴールはポウハタン酋長の娘ポカホンタスを誘拐し、一年にわたってヘンリカスに軟禁状態に置いた。しかし、彼女を使って身代金を得ようとする試みは失敗した。 シーベンチャー号の生き残りの中にジョン・ロルフという実業家がいた。酋長の娘を使ってポウハタン族を脅迫する試みはうまくいかなかったが、ジョン・ロルフが1614年にポカホンタスと結婚した時点で第一次アングロ・ポウハタン戦争は終わった。この結婚は大きく異なる文化の間に良い感情を生んだ。ほんの数年ではあるが比較的平和な時ができた。夫妻の息子トマス・ロルフが1615年に生まれた。ポカホンタスは英国に連れて行かれ、「インディアンの王女」としてもてはやされ、植民地宣伝のプロパガンダに利用された。 美しく新しいシーベンチャー号に乗って大きな期待を抱いてイングランドを離れたにも拘わらず、ここまでのニューポート船長との旅は全くうまくいかなかった。ロルフの妻となったポカホンタスと息子はロンドンを出てからの航海の途中で死んだ。ロルフ一人がやっとジェームズタウンに到着し、「飢えの時」の結果を見出すことになった。商売のアイディアを幾つかと、甘い香りのするタバコの新しい種を持っていたが、そのどちらも試みられてはいなかった。まさに変化するときであった。 植民地の経済は別の問題であった。金は一度も発見されなかった。植民地に利益の出る産業を興そうという試みは全て失敗したが、この時ロルフが2種の外国産タバコ、オリノコとスウィートセンティドを導入した。これらは土地の他の種よりも収穫が良く、1612年には初めてイングランドに向けて出荷され、顧客はその香りを好ましいものと思った。この輸出用換金作物を見付けたことがバージニアの経済を生き残らせる始まりとなった。 バージニア植民地はタバコ生産の発展で繁栄し始めたが、インディアンが自分達のものと考えている土地をより多く必要とした。特にポカホンタスがイングランドに旅行している間の1617年に死に、その父ポウハタン酋長が1618年に死んだ後は、ポウハタン族との紛争が再燃した。開拓者の間の紛争も発生した。デラウェア卿の副官サミュエル・アーゴールは植民地の管理を任されており、ジェームズタウンを専制君主のように支配した。アーゴールの虐待に対する告発に反応したデラウェア卿は1618年に戻ろうとしたがその途上で死んだ。
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