シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生
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「ドイツ社会民主党」の記事における「シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生」の解説
1998年、長期政権への飽きや景気の低迷などでコール政権の支持率が低下したこと、イギリス労働党の勝利以来続いた欧州社民主義政党の復調の流れを受けたことなどがあって連邦議会選挙で勝利。同盟90/緑の党と連立を組んだゲアハルト・シュレーダー政権(赤緑連合)が誕生。 シュレーダーは「新中道」という理念を掲げた。これは1980年代を席巻した新自由主義的な市場中心主義ではなく、かつ従来の社会民主主義の国家中心主義でもない「新しい社会民主主義」を目指し、就労支援を中心とするワークフェア的雇用政策への転換により「積極的福祉国家」と呼ばれる方向へ向かう理念だった。この前年にはイギリスでシュレーダーと似た政策理念「第三の道」を掲げる労働党党首トニー・ブレアが首相になっており、両国首相は1999年6月に『第三の道/新中道』という共同文書を発している。1999年12月のベルリン党大会ではシュレーダーが党首に選出されるとともに綱領改定作業の開始が決議されたが、「新中道」路線は党内左派からの反発が大きく結局この路線での綱領改定は挫折した。 2002年9月の連邦議会選挙で辛勝して政権維持に成功したが、この第二次政権でシュレーダーは綱領改定問題から引いた態度を取り続けた。社民党党首として綱領改定に取り組むより首相として政策実行する方が早いためであり、シュレーダーは首相として独自の政策方針「アジェンダ2010(ドイツ語版)」を発表し、党内議論をスキップした。この「アジェンダ2010」はフォルクスワーゲン社社長ペーター・ハーツ(ドイツ語版)を座長とした「ハーツ委員会(ドイツ語版)」の答申に基づき策定されたものであり、ハーツ改革案の一つである「ハーツ4(Hartz IV)」が2002年10月に連邦議会で可決されたことで失業者援助金の水準を生活保護と同水準まで引き下げる改革が行われた。さらに2004年10月には公的健康保険の自己負担率を上げる改革が行われた。これらの改革によって政府は一定の成果を上げることに成功したが、中間層の所得格差は増大し、労働者階級、特に高失業率の旧東ドイツ市民の不満が高まった。 またこうした経済・雇用政策における右傾化路線には党内左派から強い反発が起き、2004年3月の臨時党大会では党をまとめきれなくなったシュレーダー首相が党首の座を降り、首相職に専念することになった。代わって党の連邦議会議員団長のフランツ・ミュンテフェーリングが党首となった。ミュンテフェーリング以降の社民党党首は調整型あるいは左派寄りが多くなり、党の左派回帰が強まっていく。 さらに2005年1月には党内左派の集団脱党が発生し、彼らは左派新党「労働と社会的公正(WASG)」を結成した(同党ははじめ民主社会党と政党連合を組んだが、翌々年の2007年に合同して左翼党を結成した)。この新党結成により左派票が社民党から流出し、2005年5月に行われたドイツ最大州ノルトライン=ヴェストファーレン州議会の選挙(ドイツ語版)で社民党は惨敗を喫した。
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