シュレーダー政権の誕生とは? わかりやすく解説

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シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)

ドイツ社会民主党」の記事における「シュレーダー政権赤緑連合)の誕生」の解説

1998年長期政権へ飽き景気低迷などでコール政権支持率低下したこと、イギリス労働党勝利以来続いた欧州社民主義政党復調流れ受けたことなどがあって連邦議会選挙勝利同盟90/緑の党連立組んだゲアハルト・シュレーダー政権赤緑連合)が誕生シュレーダーは「新中道」という理念掲げた。これは1980年代席巻した新自由主義的な市場中心主義ではなく、かつ従来社会民主主義国家中心主義でもない新し社会民主主義」を目指し就労支援中心とするワークフェア雇用政策への転換により「積極福祉国家」と呼ばれる方向へ向かう理念だった。この前年にはイギリスシュレーダー似た政策理念第三の道」を掲げ労働党党首トニー・ブレア首相になっており、両国首相1999年6月に『第三の道/新中道』という共同文書発している。1999年12月ベルリン党大会ではシュレーダー党首選出されるとともに綱領改定作業開始決議されたが、「新中道」路線党内左派からの反発大きく結局この路線での綱領改定挫折した2002年9月連邦議会選挙辛勝し政権維持成功したが、この第二次政権シュレーダー綱領改定問題から引いた態度取り続けた。社民党党首として綱領改定取り組むより首相として政策実行する方が早いためであり、シュレーダー首相として独自の政策方針アジェンダ2010ドイツ語版)」を発表し党内議論スキップした。この「アジェンダ2010」はフォルクスワーゲン社長ペーター・ハーツ(ドイツ語版)を座長とした「ハーツ委員会ドイツ語版)」の答申に基づき策定されたものであり、ハーツ改革案の一つである「ハーツ4(Hartz IV)」が2002年10月連邦議会可決されたことで失業者援助金水準生活保護と同水準まで引き下げる改革が行われた。さらに2004年10月には公的健康保険自己負担率を上げ改革が行われた。これらの改革によって政府一定の成果上げることに成功したが、中間層所得格差増大し労働者階級、特に高失業率旧東ドイツ市民の不満が高まった。 またこうした経済・雇用政策における右傾化路線には党内左派から強い反発起き2004年3月臨時党大会では党をまとめきれなくなったシュレーダー首相党首の座を降り首相職専念することになった。代わって党の連邦議会議員団長フランツ・ミュンテフェーリング党首となった。ミュンテフェーリング以降社民党党首調整型あるいは左派寄り多くなり、党の左派回帰強まっていく。 さらに2005年1月には党内左派集団脱党発生し、彼らは左派新党労働社会的公正(WASG)」を結成した(同党ははじめ民主社会党政党連合組んだが、翌々年2007年合同し左翼党結成した)。この新党結成により左派票が社民党から流出し2005年5月行われたドイツ最大ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙ドイツ語版)で社民党惨敗喫した

※この「シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生」の解説は、「ドイツ社会民主党」の解説の一部です。
「シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生」を含む「ドイツ社会民主党」の記事については、「ドイツ社会民主党」の概要を参照ください。

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