シカゴでの徴兵拒否デモ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 22:55 UTC 版)
「ゲイリー・レーダー」の記事における「シカゴでの徴兵拒否デモ」の解説
その後、レーダーは徴兵および対ベトナム軍事介入への反対運動に身を投じた。新左翼派の雑誌『Liberation』のインタビューでは、「我々はもはや単なる反戦抗議活動に興味はない。我々はそれを止めねばならないのだ」と語っている。1967年9月、反戦運動家デイヴィッド・F・グリーンバーグ(David F. Greenberg)と共にシカゴ地区徴兵抗議会(Chicago Area Draft Resisters, CADRE)を設立する。1967年10月21日には、反戦団体「ベトナム戦争終結に向けた全米動員委員会」(The Mobe)と共同してペンタゴンへのデモ行進の開催に関与した。このデモ行進の際、レーダーはアビー・ホフマン(Abbie Hoffman)、デイヴィッド・デリンジャー(英語版)、ジェリー・ルービン、ウィリアム・フランシス・ペッパー(英語版)、民主社会主義学生同盟(英語版)(SDS)のカール・デイヴィッドソン(Carl Davidson)、The Mobeのロバート・グリーンブラット教授(Robert Greenblatt)、人種平等会議(英語版)のリンカーン・リンチ(Lincoln Lynch)、平和のための婦人運動(英語版)(WSP)のエイミー・スワードロウ(Amy Swerdlow)など、多くの左派活動家と関係を持った。ペンタゴン前ではレーダー自身もスピーチを行い、作家ノーマン・メイラーはこれを「皆に最高の一時を与えた」と高く評価している。その後、レーダーは他の抗議者らと共に逮捕された。収監中には刑務所内でのハンガー・ストライキに参加し、刑務官から栄養点滴を施されている。 レーダーは手紙やマスコミからの取材を通じてCADREへの支援を訴えていた。1967年12月、レーダーはラジオ局WAMU(英語版)からインタビューを受け、同局のベトナム戦争特集番組で放送された。この番組は2部構成で、第1部ではウィリアム・ウェストモーランド将軍へのインタビューが、第2部ではレーダーへのインタビューが流された。学生非暴力調整委員会(英語版)の出版物『The Movement』にもCADREへの出資を求める広告を掲載させている。また、WSPに対しては徴兵拒否者の保釈の為の寄付や法的支援を求める手紙を書いている。 CADREでは他紙の転載も含めた多数の関連記事を印刷物として配布したほか、シカゴ都市圏の若者を対象としたパンフレットも作成している。また徴兵拒否者の保釈を支援する為の基金を設立し、関連した裁判に精通する弁護士の紹介も行っていた。1968年2月、レーダーはニューヨークに移るが、その後も反戦運動を続けた。1968年3月、CADREはシカゴにおける抗議活動を支援した。1968年の民主党全国大会では、CADREは会場外での抗議活動に参加している。リチャード・ニクソン大統領が徴兵廃止を決定した1973年頃からCADREは勢いを失い、1974年または1975年には解散した。 CADREの共同設立者だったグリーンバーグはThe Mobeにもメンバーとして名を連ねており、1967年にはCADREの為に『Vietnam and the draft』と題したモノグラフを発表している。彼は後に高エネルギー物理学の分野で博士号(Ph.D.)を取得した。その後はニューヨーク大学の社会学教授として教鞭を執りつつ、複数の書籍を発表している。1973年11月、レーダーはボストン精神病院にて自殺した。グリーンバーグは1993年に出版された著書の中で、同書をペトラ・ケリー(ドイツ緑の党創設者、1992年没)、フェイ・ステンダー(英語版)(人権活動家、1980年没)、そしてレーダーに捧ぐと書いた。
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