シカゴの大ボス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 16:06 UTC 版)
「トニー・アッカルド」の記事における「シカゴの大ボス」の解説
1940年代になると、アッカルドのアウトフィット内部での勢力は拡大し続けた。1943年、ボスのフランク・ニッティが刑務所に入ることを恐れて自殺すると、ポール・リッカが新しいボスとなり、アッカルドは彼の副ボスに昇格した。1943年、ボスのリッカに懲役10年の刑が言い渡されると、アッカルドは組織の代理ボスとなった。3年後、リッカが仮釈放の身となったが、組織との関係を断ち切ることを強制されることになった。リッカは表面的には組織から身を引くこととなり、以後は正式なボスとなったアッカルドのコンシリエーレ(Consigliere:アドバイザー)としてアッカルドと共に組織を操った。アッカルドは、目立つ様な行動を避け、サム・ジアンカーナの様な当局からの注意を引く人物の存在を許すことにより、自分らに目が向かないように行動したことから、アル・カポネよりも非常に長い期間の間、組織を掌握し続けることが出来た。 リッカはアッカルドについて、かつてこう評したことがある。「カポネが一日かけて考えていたことを朝飯の前に済ませるほど頭の回転のいい奴だった」。 1940年代後半になると、アッカルドの指揮の下、組織はスロットマシン、自動販売機、偽タバコ、酒税印偽造、そして、麻薬密輸の拡大へと犯罪ビジネスを拡大していった。アッカルドは組織のテリトリー内にある酒場、レストラン、ガソリンスタンド等、ありとあらゆる場所にスロットマシンを配置していった。そして、シカゴ郊外へもいち早く手を広げ、ラスベガスにおいてのギャンブル事業等も、ニューヨークの5大ファミリーからその影響力を奪い取っていった。カンザスとオクラホマでは、アルコール販売が禁止されているのを利用して、無許可で製造されたアルコール持ち込んで販売していた。 こうした活動の結果、アッカルド率いるシカゴ・アウトフィットはアメリカ西部の大部分を支配することになった。また、犯罪活動によって、組織に当局からの注目がいかないように、アッカルドはいくつかの伝統的な犯罪活動(労組恐喝・強請行為)を段階的に廃止していった。さらに、売春宿経営はコールガール(Call girl)サービスに切り替えた。これらの改革を行ったのは、組織の影響力の拡大とそして組織が大いに潤っていたことがその一因である。 1950年代、FBIがシカゴ・アウトフィットの調査に乗り出すと、アッカルドは他のファミリーとの抗争を行わないという紳士協定を解いた。
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