シカゴでの音楽祭(1930年)
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「エリザベス・スプレーグ・クーリッジ」の記事における「シカゴでの音楽祭(1930年)」の解説
1929年に始まった世界恐慌の影響によりエリザベスも資金繰りが厳しくなったが、1930年には生まれ故郷のシカゴでの音楽祭を企画した。ちょうどその頃、エリザベスと親交のあったフランスの音楽学者アンリ・プリュニエール(フランス語版)は、刊行していた音楽雑誌『ルヴュ・ミュジカル(フランス語版)』の経営が危うくなり、エリザベスに援助を申し込んだ。エリザベスも余裕はあまりなかったが、シカゴでの音楽祭のために用意していた資金の一部を割いて彼を援助した。ただし、その交換条件としてプリュニエールに『ルヴュ・ミュジカル』だけでなく『ル・フィガロ』、『ル・タン(英語版)』、『ニューヨーク・タイムズ』など多くの新聞や雑誌に音楽祭の評論を書かせ、世界中に音楽祭を広報させた。エリザベスはこのように、気前良く支援を行う一方で援助者に見返りを求め、「Win-Win」の関係を築くことがしばしばあった。 1930年のシカゴでの音楽祭に際してエリザベスはヒンデミットに作品を委嘱し、その結果書かれたのが『ピアノ、金管と2台のハープのための協奏音楽』である。エリザベスと、後にアメリカに亡命することになるヒンデミットとの交流はこの時に始まった。
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