グラズノフとは? わかりやすく解説

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グラズノフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:11 UTC 版)

チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「グラズノフ」の解説

チャイコフスキーリムスキー=コルサコフ業績のみならず10代のグラズノフの仕事にも感銘受けていた。神童であったグラズノフはピアノ練習9歳から、作曲11歳から始めていた。13歳だった1879年出会ったミリイ・バラキレフからリムスキー=コルサコフについて作曲対位法管弦楽法個人レッスンを受けるよう推薦を受け、彼は自ら手掛けた管弦楽総譜リムスキー=コルサコフ元へ持参した。「その少年才能疑いなく明らかなのだった」とリムスキー=コルサコフ回想している。リムスキー=コルサコフの下で2年に少し満たないくらいの期間学んだグラズノフは、リムスキー=コルサコフの言に依れば「日ごとではなく文字通り毎時進歩していった。同時に彼はバラキレフからの助言も受け続けた16歳完成させた交響曲第1番は、1882年3月29日バラキレフ指揮により初演され成功収めた。この演奏聴いていたのが材木王でアマチュア音楽家であったミトロファン・ベリャーエフであり、彼は若き作曲家を自らの庇護下に置くことになる。もうひとりチャイコフスキー親交のあったセルゲイ・タネーエフである。グラズノフは最終的にサンクトペテルブルク音楽院教授となり、その後音楽院長にまで登り詰めていく。 タネーエフから交響曲第1番初演に関して聞かされチャイコフスキーはたちまちグラズノフに強い関心示しはじめる。当時、彼はバラキレフにこう書き送っている。「グラズノフには大層興味引かれます。この若者にその交響曲送ってもらって目を通すことができたりしないでしょうか。それに彼が曲を完成させるにあたり内容もしくは技術面どちらかにでも貴方やリムスキー=コルサコフ助力得たかどうかということ知りたく思います。」バラキレフ返信次のようなものだった。「グラズノフについてお尋ねですね。彼は非常に才能恵まれた若者で、リムスキー=コルサコフの下で1年学びました交響曲作曲した時、彼はいかなる助けも必要としませんでした。」グラズノフの弦楽四重奏曲第1番研究したチャイコフスキーは弟のモデストにこう伝えている。「[リムスキー=]コルサコフ模倣しているにも関わらず中略驚くべき才能認められる。」後にグラズノフは管弦楽のための『抒情的な詩』の写譜チャイコフスキー送っているが、チャイコフスキー以前その作品に関してバラキレフへと熱狂的な調子で筆を執り自身の作品出版していたユルゲンソンからの出版薦めていたのである批評家ウラディーミル・スターソフによれば、グラズノフとチャイコフスキー初め出会ったのは1884年10月バラキレフ主催集まりの場であったという。このときグラズノフは19歳になっていた。チャイコフスキーオペラエフゲニー・オネーギン』がマリインスキー劇場上演されるのに合わせてサンクトペテルブルク滞在していた。後年、グラズノフが記したところでは愛国主義サークルは「もはやかつてのようにイデオロギー的に閉鎖的隔絶されていたわけではなかった」ものの、彼らは「P.I.チャイコフスキー仲間とは看做していなかった。我々が価値見出していたのは『ロメオとジュリエット』、『テンペスト』、『フランチェスカ[・ダ・リミニ]』そして交響曲第2番終楽章のような彼の一部作品けだったのであるその他の彼の仕事知らない作品か、我々とは相容れない作品だった。」チャイコフスキー存在その場にいたグラズノフや他の若い作曲家認めるところとなり、チャイコフスキーが彼らと交わす会話は「幾分埃っぽい雰囲気中に居る我々の中心吹き込む新鮮な風だった(中略リャードフや私を含め居合わせた若い音楽家たちはチャイコフスキー人柄に魅せられてバラキレフの家を後にした。(中略リャードフ述べたように、我々が偉大な作曲家知り合えたことは大変な出来事であった。」 グラズノフが付け加えるには、彼とチャイコフスキー関係性は「自分たちの仲間中略)でない」年長作曲家との関係からチャイコフスキー没するまで続く親密友人関係へと変化したという。「私はバラキレフ邸や私の自宅で非常に頻繁にチャイコフスキー会っていた」とグラズノフは回想する。「大抵は音楽のことで顔を合わせていた。彼は常に我々の社会サークルの最も嬉し客人ひとりとして姿を見せたのである。私とリャードフ加えリムスキー=コルサコフバラキレフも我々の集まり常連だった。」チャイコフスキー人生最後数年間で多く時間共にするようになっていったこのサークルが、支援者であるベリャーエフの名前にちなみベリャーエフ・サークルとして知られるうになるのである音楽学者リチャード・タラスキンによればベリャーエフはその資金力をもってバラキレフやスターソフでは成し得なかったほどに強力かつ永続的にロシアの音楽方向付たのだった

※この「グラズノフ」の解説は、「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の解説の一部です。
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