グラズノフ
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「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「グラズノフ」の解説
チャイコフスキーはリムスキー=コルサコフの業績のみならず、10代のグラズノフの仕事にも感銘を受けていた。神童であったグラズノフはピアノの練習を9歳から、作曲を11歳から始めていた。13歳だった1879年に出会ったミリイ・バラキレフからリムスキー=コルサコフについて作曲、対位法、管弦楽法の個人レッスンを受けるよう推薦を受け、彼は自ら手掛けた管弦楽の総譜をリムスキー=コルサコフの元へ持参した。「その少年の才能は疑いなく明らかなものだった」とリムスキー=コルサコフは回想している。リムスキー=コルサコフの下で2年に少し満たないくらいの期間学んだグラズノフは、リムスキー=コルサコフの言に依れば「日ごとではなく、文字通り毎時」進歩していった。同時に彼はバラキレフからの助言も受け続けた。16歳で完成させた交響曲第1番は、1882年3月29日にバラキレフの指揮により初演され成功を収めた。この演奏を聴いていたのが材木王でアマチュアの音楽家であったミトロファン・ベリャーエフであり、彼は若き作曲家を自らの庇護下に置くことになる。もうひとりはチャイコフスキーと親交のあったセルゲイ・タネーエフである。グラズノフは最終的にサンクトペテルブルク音楽院の教授となり、その後音楽院長にまで登り詰めていく。 タネーエフから交響曲第1番の初演に関して聞かされたチャイコフスキーはたちまちグラズノフに強い関心を示しはじめる。当時、彼はバラキレフにこう書き送っている。「グラズノフには大層興味を引かれます。この若者にその交響曲を送ってもらって目を通すことができたりしないでしょうか。それに彼が曲を完成させるにあたり、内容面もしくは技術面のどちらかにでも貴方やリムスキー=コルサコフの助力を得たのかどうかということも知りたく思います。」バラキレフの返信は次のようなものだった。「グラズノフについてお尋ねですね。彼は非常に才能に恵まれた若者で、リムスキー=コルサコフの下で1年学びました。交響曲を作曲した時、彼はいかなる助けも必要としませんでした。」グラズノフの弦楽四重奏曲第1番を研究したチャイコフスキーは弟のモデストにこう伝えている。「[リムスキー=]コルサコフを模倣しているにも関わらず(中略)驚くべき才能が認められる。」後にグラズノフは管弦楽のための『抒情的な詩』の写譜をチャイコフスキーへ送っているが、チャイコフスキーは以前にその作品に関してバラキレフへと熱狂的な調子で筆を執り、自身の作品を出版していたユルゲンソンからの出版を薦めていたのである。 批評家のウラディーミル・スターソフによれば、グラズノフとチャイコフスキーが初めて出会ったのは1884年10月、バラキレフ主催の集まりの場であったという。このときグラズノフは19歳になっていた。チャイコフスキーはオペラ『エフゲニー・オネーギン』がマリインスキー劇場で上演されるのに合わせてサンクトペテルブルクに滞在していた。後年、グラズノフが記したところでは愛国主義のサークルは「もはやかつてのようにイデオロギー的に閉鎖的で隔絶されていたわけではなかった」ものの、彼らは「P.I.チャイコフスキーを仲間とは看做していなかった。我々が価値を見出していたのは『ロメオとジュリエット』、『テンペスト』、『フランチェスカ[・ダ・リミニ]』そして交響曲第2番の終楽章のような彼の一部の作品だけだったのである。その他の彼の仕事は知らない作品か、我々とは相容れない作品だった。」チャイコフスキーの存在はその場にいたグラズノフや他の若い作曲家の認めるところとなり、チャイコフスキーが彼らと交わす会話は「幾分埃っぽい雰囲気の中に居る我々の中心へ吹き込む新鮮な風だった(中略)リャードフや私を含め、居合わせた若い音楽家たちはチャイコフスキーの人柄に魅せられてバラキレフの家を後にした。(中略)リャードフが述べたように、我々が偉大な作曲家と知り合えたことは大変な出来事であった。」 グラズノフが付け加えるには、彼とチャイコフスキーの関係性は「自分たちの仲間(中略)でない」年長の作曲家との関係からチャイコフスキーが没するまで続く親密な友人関係へと変化したという。「私はバラキレフ邸や私の自宅で非常に頻繁にチャイコフスキーと会っていた」とグラズノフは回想する。「大抵は音楽のことで顔を合わせていた。彼は常に我々の社会サークルの最も嬉しい客人のひとりとして姿を見せたのである。私とリャードフに加え、リムスキー=コルサコフとバラキレフも我々の集まりの常連だった。」チャイコフスキーが人生最後の数年間で多くの時間を共にするようになっていったこのサークルが、支援者であるベリャーエフの名前にちなみベリャーエフ・サークルとして知られるようになるのである。音楽学者のリチャード・タラスキンによれば、ベリャーエフはその資金力をもってバラキレフやスターソフでは成し得なかったほどに強力かつ永続的にロシアの音楽を方向付たのだった。
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