キーティング政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「キーティング政権」の解説
フレイザーから政権を奪取した労働党のロバート・ホーク (Robert Hawke) は、オーストラリア労働組合評議会 (ACTU) の議長を長年務め、高い支持を集めてきた人物である。政治家に転身してから3年、党首に就任してから1ヶ月余りという異例の速さで首相に上り詰めた。 党内の懸案であったホーク派とヘイドン (Bill Hayden) 派との内紛は、ヘイドンを外相に据えることで決着した。就任直後に連邦政府及び州政府の首脳、経済団体、労働組合、消費者団体の各代表を一堂に集めた「全国経済サミット」を開催し、経済問題解決の意欲を示したホークは、豪ドルの10%切り下げを断行した。また、中国やソ連との経済関係強化に努めた。 ホークは国際問題にも関心を寄せ、南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)締結やアジア太平洋経済協力 (APEC) の結成で手腕を発揮した。カンボディア問題に際しては、第三者としての立場から解決を図ったが、東南アジア諸国からの反発を招いた。 他に注目される事績としては、ANZUS体制崩壊の回避がある。1984年にニュージーランドで成立した労働党政権は、選挙時の公約に則り核積載艦船の入港を拒否した。これにアメリカが反発し、ANZUS破棄を示唆したが、オーストラリアが両国の間に立って、間接的に3国の関係を維持することで危機を乗り切った。ただし、以後ANZUSは事実上、米豪の2国間協定となっている。 1990年代に入ると、ホーク内閣の蔵相ポール・キーティング (Paul Keating) が首相に就いた。キーティングはホークとの抗争の末に政権を獲得したが、基本的にはホークの路線を継承した。ヘイドンの後任の外相を務めたギャレス・エヴァンズ (Gareth Evans) はは留任し、国際的安全保障会議の創設を提案した。 一方、エリザベス2世の訪豪以来、国内では立憲君主制の是非を巡る論議が盛んになった。1995年6月発表の政府案では、2001年までの共和制移行を目指す方針が示された。しかし、次代のハワード政権下で行われた国民投票で、共和制導入案は否決された。
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