ハワード政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「ハワード政権」の解説
1996年3月、下院選に勝利した自由党のジョン・ハワードが、13年ぶりに労働党から政権を奪回した。ハワードは財政再建のため教育・福祉予算を削減し、さらに消費税導入にも取り組んだ。しかしこれが影響し、1998年の選挙で与党は上院で過半数を割った。 イラク戦争を支持したハワード政権は、サマーワに1,400人規模の部隊を駐留させ、日本の自衛隊と協力して復興支援と治安回復に当たった。世論調査では、イラク戦争の是非については大半が「誤った戦争であった」と答えたが、駐留に対しては「治安回復のため、最後まで責任を果たすべきである」などの理由から、容認する意見が多かった。これを背景に、ハワードはイギリスが部隊を撤収した後も「イギリスの穴は我々が埋める」と表明して駐留を続けた。アフガニスタンにも約800人の部隊を派遣し、対米協調姿勢を鮮明にしている。 この他、東ティモールへのPKOに参加したが、派遣された兵士が民間人2名を殺害した事件をきっかけに、現地の反発を招いた。 2007年3月に訪日したハワードは、「日豪安全保障協力に関する共同宣言」に署名した。テロ対策や大量破壊兵器の拡散防止での協力、オーストラリア軍と自衛隊の共同訓練の実施などを柱としており、相互防衛を謳ったものではないが、アジアでの存在感強化や日米豪3国の連携を視野に入れている。一方で、中国の反発が懸念されており、今後の対応が注目される。
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