カジノ・フォーリー
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カジノ・フオーリー[1](カジノ・フォーリー、仏語由来Casino Folies、1929年7月10日 - 1933年3月)は、かつて存在した日本の軽演劇の劇団である。エノケンこと榎本健一が在籍し、常連客だった小説家の川端康成が小説のモデルにしたことで知られる。
- ^ 正式表記。
- ^ a b c d コトバンクサイト内の記事「カジノ・フォーリー」、「カジノフォリー」の両記述を参照。
- ^ a b c d e 国立音楽大学音楽学部音楽学学科作成の資料「エノケンさんに 会いにゆこう!」(2004年11月)の記述を参照。
- ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「有馬是馬」の項(p.30)を参照。同項執筆は奥田久司。
- ^ 小川和佑『堀辰雄 その愛と死』(旺文社、1984年)
- ^ 川村湊『物語の娘―宗瑛を探して』(講談社、2005年)
- ^ a b 「高橋新太郎文庫」公式サイト内の記事「カジノ・フォーリー・パンフレット」の記述を参照。
- ^ 新宿大通商店街振興組合公式サイト内のコラム「ムーラン・ルージュ新宿座」の記述を参照。
- ^ 日立システムアンドサービスの「ネットで百科」の「カジノ・フォーリー」の項の記述を参照。
- 1 カジノ・フォーリーとは
- 2 カジノ・フォーリーの概要
- 3 関連書籍
カジノ・フォーリー
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「浅草公園水族館」の記事における「カジノ・フォーリー」の解説
1907年(明治40年)4月21日、同水族館に隣接して、昆虫学者の名和靖が「通俗教育昆虫館」を設立した。1918年(大正7年)には根岸興行部に経営が移り、館内にメリーゴーラウンドを設置、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災以降には「木馬館」と名を変え、安来節を中心とした演芸場となった(後に浪曲(一階の木馬亭)と大衆演劇(二階の木馬館大衆劇場)の常打ち小屋として現存)。 1929年(昭和4年)7月10日、隣地の「木馬館」の影響もあり、同水族館の経営をしていた興行師・桜井源一郎が、石田守衛に2階「余興場」での演芸をもちかけ、石田が榎本健一を誘って、軽演劇の劇団「カジノ・フォーリー」を旗揚げした。作家の川端康成が同時進行で東京朝日新聞に小説『浅草紅団』(1929年 - 1930年)を連載したことで認知度は高まり、同水族館とその2階の「カジノ・フォーリー」は全国的に知られた。榎本の脱退等を経て、1933年(昭和8年)3月、「カジノ・フォーリー」は解散した。 同水族館の閉館時期は不明だが、1935年(昭和10年)、写真家の桑原甲子雄が同水族館を撮影した写真『浅草公園水族館』を発表、作家の高見順が雑誌『文藝』に1939年(昭和14年)1月 - 1940年(昭和15年)3月の12回連載した小説『如何なる星の下に』では、すでに廃墟として描かれている。
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