カイロとバスラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:07 UTC 版)
「ガートルード・ベル」の記事における「カイロとバスラ」の解説
1915年11月に彼女は、新設されたイギリスの外務省管轄下でギルバート・クレイトン(英語版)将軍率いるアラブ局(英語版)のカイロに置かれた諜報機関の情報員として召集を受け、オスマン帝国に対するアラブ反乱に携わる。T・E・ロレンスは、既にマッカの戦い(英語版)・マディーナ包囲戦(英語版)・ターイフの戦い(英語版)等の戦闘に参加していたが、1916年10月にアラブ局へ召集を受けてガートルード・ベルと再会し:160–161、アカバ港やヒジャーズ巡礼鉄道線などへのゲリラ工作、ベルはバスラに上陸を果たしたイギリス軍と共にメソポタミアの地からオスマン帝国を一掃する作戦の援護に携わる。ベルとロレンスは共にオックスフォード大学で近代史の第一級優等学位(英語版)を取得、流暢なアラビア語を話し、第一次世界大戦前にはアラビアの砂漠を広範囲に旅して地元部族とのつながりを築いていた。ロレンスとベルの専門知識を認めた著名な考古学者で歴史家のデビッド・ホガース(英語版)中佐の推薦により、最初にロレンス、次いでベルが1915年にカイロの陸軍情報部に配属され、戦時中の任務に就く事になった。彼女は1916年2月に到着したが、当初は正式な役職に就く事はなかった。 しかし、ホガースはベルやロレンス、W.H.I.シェイクスピア(英語版)大佐のアラブ部族の位置と性質に関する情報の整理と処理に着手する事を手助けした。そうすれば、彼らはオスマン帝国に対抗するためにイギリスに参加するように促されるかも知れなかった。ロレンスとイギリスはその情報をアラブ人との同盟を結ぶ際に利用した。 1916年3月3日、突然クレイトン将軍はベルを1914年11月にイギリス軍が占領したバスラに派遣し、彼女が他の西洋人の誰よりもよく知っている地域について政治首席補佐官パーシー・コックス(英語版)に助言を与えた。コックスは彼の本部に彼女の事務所を見つけ、彼女がバスラの軍の最高司令部にいない週2日の間はそこで雇われた。彼女はイギリス軍で唯一の女性政治将校(英語版)となり、彼女が配属されていたアラブ局の「カイロ特派連絡官」の称号を得た。 彼女はジョン・フィルビーのフィールド・コントローラーであり、彼に政治工作の舞台裏の細かい技術を教えた。 私は先週、25マイルの軽便鉄道に沿って砂漠に出かけました...それはナザリヤ鉄道です... 鉄道で50分間移動して見かける物はとても物珍しかったです...軍の新司令官であるモード将軍(英語版)が到着したばかりです。私は彼の知り合いになりました...
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