オルロフ兄弟とその子孫
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「オルロフ家」の記事における「オルロフ兄弟とその子孫」の解説
イワン・グリゴリエヴィチ・オルロフ(1733年 - 1791年)は、オルロフ四兄弟の長兄。1746年父グリゴリーの死後、オルロフ家の家督を継ぐ。弟達は、家長となったイワンを父同様に尊敬した。イワンは慎み深く質素な生活を送り、オルロフ家の財産を守った。1762年クーデター後にオルロフ家が伯爵号を授与され巨大な財産を得たときにもイワンは節度ある態度を取り、望めばどんな国家の要職や称号を受けることができたにも関わらず、これを峻拒した上で、モスクワのオルロフ家の地所に住み続けた。 四男、フョードル・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵(1741年 - 1796年)は、ロシア陸軍に入り将軍にまで昇進する。彼は七年戦争で頭角を現し1762年のクーデターに兄達とともに参加した。クーデター後、元老院議員、首席財務官に任命された。第一次トルコ戦争(露土戦争 (1768年)、w:Russo-Turkish War, 1768-1774)では、グリゴリー・スピリドフw:Grigory Spiridov提督の指揮下に入り、チェスマの海戦で最初にトルコ軍の戦列を突破したひとりとなった。その後トルコの艦艇18隻を捕獲し、これらの軍功によって聖エカテリーナ勲章を受章し、戦功を記念してツァールスコエ・セローには記念碑w:Chesme Columnが建てられた。1775年に公職を辞し、引退した。フョードルは正式な結婚はしなかったが、5人の庶子がいた。そのいずれもが長じて、エカチェリーナ2世によって貴族に取り立てられ、嫡出子とされた。 ウラジーミル・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵(1743年 - 1831年)は、オルロフ兄弟の末子。1762年のクーデターの時は19歳であったため、4人の兄たち、「オルロフ四兄弟」とは区別される場合もある。兄たちは末弟を聡明であるとして、一層の教養を身につけさせるべくライプツィヒ大学に入れた。大学での勉学は長くなかったにもかかわらず、帰国後、エカチェリーナ2世によって科学アカデミー総裁に任命された。ウラジーミルはラテン語については、それほど重視せず、ドイツ語の学習に力点を置いた。ウラジーミル自身、ドイツ語は相当流暢であった。総裁としてのウラジーミルはペーター・シモン・パラス(w:Peter Simon Pallas)ら、外国の学者を多くロシアに招聘している。 1767年、エカチェリーナ2世のヴォルガ行幸に随行し、この間の様子を紀行文に著している。次兄グリゴリーが失寵後は、科学アカデミー総裁などの公職を辞して領地に退いた。 ウラジーミル・オルロフには、幾人かの子女がいた。娘のひとりは、ニキータ・ペトローヴィチ・パーニン伯爵(w:Nikita Petrovich Panin)に嫁いだ。 ウラジーミルの子息、グリゴリー・ウラージミロヴィチ・オルロフ伯爵(1777年 – 1826年6月22日)は、父に先立ち世を去ったが、その生涯は父同様、科学に身を捧げたものと言えよう。1799年11月アンナ・サルトィコワと結婚後、フランス、イタリア、スイスを訪問した。パリ滞在中、イワン・クルィロフw:Ivan Krylovの著作をフランス語に翻訳している。アンナ夫人の死後、ロシアに帰国。 主著にイタリア史について著述し、ドイツ語、英語、イタリア語に翻訳されたMémoirs historiques, politiques et littéraires sur le Royaume de Naplesや、音楽と絵画を主題としたHistoire des Arts en Italie、Voyages dans une Partie de la France, ou Lettres descriptives et historiques (1824年パリで出版)などがある。1809年1月25日ロシア科学アカデミー名誉会員となる。3人の庶子を遺した。
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