エルネスツ・ブラスティンシュの時代
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「ディエヴトゥリーバ」の記事における「エルネスツ・ブラスティンシュの時代」の解説
ディエヴトゥリーバ運動の起源は、19世紀の第一次ラトビア民族覚醒運動でラトビアの伝承を収拾し、第一次世界大戦でラトビア独立を目指して戦った青年ラトビア (ラトビア語: jaunlatvieši) 運動に遡ることができる。1925年、エルネスツ・ブラスティンシュとカールリス・マロヴスキス=ブレグジスが「ラトビア宗教の復興」を宣言し、ディエヴトゥリーバ運動を始めた。彼らは1926年にラトビア・ディエヴトゥリ集会 (Latvju Dievtur̦u Draudze) を設立した。しかし2人の運動の構想には相違点があった。マロヴスキス=ブレグジスが家族や小さなコミュニティの身近な関係の中での活動を志していたのに対し、ブラスティンシュはこれを政治運動化して多くの人々を引き込もうと考え、組織を作り、公共の場で明確な声明を出すこともいとわなかった。マロヴスキス=ブレグジスは自身の結成した団体を登録する一方、ブラスティンシュも1927年の時点で既に独自の団体を結成し登録していた。二人は1929年に決別し、以降ディエヴトゥリーバは主にブラスティンシュの名の下で展開されるようになった。 マロヴスキス=ブレグジスの団体は1930年代前半に消滅したが、ブラスティンシュのラトビア・ディエヴトゥリ集会は1935年に世俗団体として再登録するよう強制されてからも活動を続けた。こうしてブラスティンシュは初期ディエヴトゥリーバ第一の中心人物となった。彼は芸術家、アマチュアの歴史家、民俗学者、考古学者といった顔も持っていた。彼は数々の古代ラトビアの建築物に関する文献を執筆し、『ラトビアのダイナスの神話的観念の索引』を著した。また1932年の著書『ディエヴトゥリ・カテキズム』は、ディエヴトゥリーバにおいて中心的なインスピレーションをもたらす文書となった。他の戦間期の理念的指導者としては、アルヴェードス・ブラスティンシュやアルフレードス・ゴバが挙げられる。 1920年代から1930年代にかけて、ディエヴトゥリーバ運動は数々の文化人から注目を集めた。例えば、画家のイェーカブス・ビーネ、作家のヴォルデマールス・ダンベルグス、ヴィクトルス・エグリーティス、文学史家でアルフレードス・ゴバの批判者となったユリス・コサ、作曲家のヤーニス・ノルヴィリスやアルトゥールス・サラクスなどがいる。一般大衆に浸透する試みは失敗に終わったものの、ディエヴトゥリーバは芸術家や知識人を通して相当量の民間伝承を収集することができた。1933年から1940年にかけて、ラトビア・ディエヴトゥリ集会は『ラビエティス』(Labietis、善良な、高貴な者の意)と題した雑誌を刊行した。ノルヴィリス、サラクス、それに作曲家兼指揮者のヴァルデマールス・オゾリンシュ、ラトビアの伝統的なコクレ(弦楽器)やトリーデクスニス(鳴子のような打楽器)、合唱を取り入れた小音楽シーンを作成した。また彼らは伝承音楽を祝賀曲にアレンジしたり、ディエヴトゥリーバの理念に触発されたオリジナルの曲を作曲したりした。
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