エストニア側の全面的妥協
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「エストニアとロシアの領有権問題」の記事における「エストニア側の全面的妥協」の解説
その一方、同年8月末には退役ロシア軍人への居住許可発給と引き替えに、駐留ロシア軍がエストニアからの撤退を完了した。「占領期」の終了を体感したエストニアはロシアとの関係正常化を指向するようになり、ラールに代わって首相に就いたアンドレス・タラント(ロシア語版)も、あくまで個人的な見解と断ったうえで、係争地の放棄を容認する意向を示した(しかし、タラントのこの発言は国内から批判を浴びた)。 翌1995年夏には、エストニア側は国境交渉においても態度を軟化させ、国境条約中にタルトゥ条約の意義を明記しながらも、国境線についてはタルトゥ条約で定められたものに代わり、新たな境界線を策定することを提案した。しかし、このエストニア側の大幅譲歩にもかかわらずロシア側は、タルトゥ条約はすでに失効済みである、として国境条約でタルトゥ条約に言及することを断固拒否した。 しかし、同時期にはヴァヒ政権(エストニア語版)における連合党(英語版)(ティート・ヴァヒ(英語版)首相)と改革党(シーム・カッラス外相(英語版))の連立が崩れ始めた。翌1996年9月にヴァヒの秘書は、消極的で成果を上げないカッラスに代わって、ヴァヒが直接に対露交渉を指揮する可能性がある、という異例の発表を行った。ヴァヒ本人も、カッラスが「ロシアに対しては何も行動を起こす必要はない」と述べた書面を自分に提出したと語り、メリ大統領も再選 (de) 直後の10月1日、対露関係は自身の任期中の優先課題であると強調した。 これに対してカッラスの側も、同月7日にエストニア議会に対し、国境交渉におけるタルトゥ条約の取り扱いに関する「重大な決断」を求めた。同時期には国境交渉のエストニア側代表であったラウル・マルク(エストニア語版)が駐英大使へ転出し、より高い次元での国境交渉が動き始めた。そして、翌11月5日にペトロザヴォーツクで開催された両国外相会談において、カッラスは国境条約でタルトゥ条約に触れるという要求を全面的に取り下げるに至った。 エストニア政府は、会談前日に「憲法第122条は交渉で国境を変更することを妨げるものではない」とした憲法草案審議録を公表していた。ヴァヒもまた、タルトゥ条約を国是とする立場には何ら変わりないが、「これは我々の立場であって、そのことを世界各国にいちいち確認を求める必要はない」と弁明した。しかしなおも、このエストニア側による全面的な領有権主張取り下げは国内で議論を呼んだ。 ともあれ、エストニア政府は直ちに国境条約に署名すると発表し、メリも両国が早期の条約署名に合意したと述べた。カッラスは翌12月2-3日のリスボン・OSCEサミットでの署名を期待して、サミット・エストニア代表のリーヴォ・シニヤルヴ (en) 欧州問題担当相に全権を与えた。ところが12月11日、ブリュッセルでの北大西洋協力会議において、エストニア新外相トーマス・イルヴェスがロシア外相エヴゲニー・プリマコフに署名日程の設定を迫ったところ、プリマコフはエストニアのロシア人(英語版)の人権問題を領有権問題と連携させると述べ、日程の設定を拒絶した。 そして翌1997年1月9日、プリマコフは記者会見においてバルト三国のロシア人(ロシア語版)問題を持ち出し、彼らに対する「差別」が撤廃されない限り国境条約には署名せず、また経済制裁の発動も辞さない、としてにわかに態度を硬化させた。1999年3月にはようやく、エストニア=ロシア間で国境条約の仮署名が行われたが、その後詳細部分についてロシア側が「不可」を連発したため、20世紀中に条約が締結されることはなかった。
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