エクスパンション時代、「ビッグ、バッド、ブルーインズ」
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「ボストン・ブルーインズ」の記事における「エクスパンション時代、「ビッグ、バッド、ブルーインズ」」の解説
1960年代後半になると、様相が一変する。ブルーインズは、1966-1967シーズンのドラフトで、後年史上最高のディフェンス選手と多くの者から目されることになる若き日のボビー・オア (Bobby Orr) を入団させた。また、史上最も一方的といわれるシカゴ・ブラックホークスとのトレードで、フィル・エスポジト (Phil Esposito)、ケン・ホッジ (Ken Hodge)、フレッド・スタンフィールド (Fred Stanfield) を移籍加入させた。 ホッジとスタンフィールドは、ボストンで期待どおりの活躍を見せたが、それにもましてエスポジトは、NHL選手としては初のシーズン100ゴールを突破した他、数々のゴール・ポイント記録を打ち立て、屈指の点取り屋としての才能を開花させた。ホッジやデレク・サンダーソン (Derek Sanderson) は、チームメートのウイング、ジョニー・ビュサイク (Johnny Bucyk) やジョン・マッケンジー (John McKenzie) らに加わり、ダラス・スミス (Dallas Smith)といった堅実なディフェンスやゴーリーの Gerry Cheevers を併せて、1960年代後半から1970年代にかけて、チームは、リーグ屈指の強豪として君臨する。この当時、乱暴で粗野なプレーにNHL史上でも類を見ない圧倒的な攻撃力を組み合わせた、ボストン・ブルーインズの通り名は、「ビッグ、バッド、ブルーインズ ("Big, Bad Bruins"、(注)破裂音 B の頭韻を踏んでいる。)」であった。 1969-1970シーズン、ブルーインズはセントルイス・ブルースを第4戦で破り、29年ぶりにスタンレー・カップを獲得する。この第4戦では、ボビー・オアは延長戦で決勝ゴールを決めた。このゴール後における、オアが勝利の喜びで腕を突き上げながら、空中を舞うシーンを収めた写真は、今日でもプロホッケーに関する写真の中でも相当に有名なものとなっている。 1971年は、ボストン・ブルーインズにとってある意味1970年代最高点に達した年であった。ブルーインズの支配力は大洪水のように圧倒的なもので、数十にも上る攻撃面での得点記録の更新に及んだ。リーグ得点の10傑には、ブルーインズの選手が7人も名を連ね(2005年現在で最高記録)、シーズン最多勝を記録、さらには1969年以前にはNHLで一人も出なかった100ポイント獲得選手をこの年4人も輩出した。この4人(オア、エスポジト、ビュサイク、ホッジ)は、揃ってオールスター戦の第1チームに選出された(この偉業は、エクスパンション時代では、ほかに1977年のモントリオール・カナディアンズのみが達成している。)。こうしてブルーインズは、カップ連覇に向けて準備万端であるかのように見えたが、プレイオフで思わぬつまずきをした。準々決勝の対モントリオール・カナディアンズ戦(カナディアンズのゴーリーは新人のケン・ドライデン、第2試合で一時5対1とリードしていたブルーインズは、7対5とまさかの逆転負けを喫したのである。これ以後、このシリーズで二度と立ち直ることなく、第7戦でカナディアンズに敗れ去った。 翌1972年、チームは前年ほどに圧倒的とはいえなかったが(それでも、前年に比べわずか3ポイント劣るのみ)、プレイオフでは再び栄光に包まれた。スタンレー・カップ決勝では第6試合で、オアの大活躍もあってニューヨーク・レンジャースの猛追をかわした(2010-2011シーズンまでは、これがボストン・ブルーインズの最も直近のカップ優勝となっていた)。 ブルーインズは、1970年代を通じて(Cheevers、マッケンジー、サンダーソンらのスター選手の WHA への移籍はあったものの)リーグで優位を占めたが、プレイオフでの成績はいまひとつであった。1973-1974シーズンには、エスポジト、オア、ホッジの100ポイント・トリオを揃えながら、荒っぽいフィラデルフィア・フライヤーズに決勝で破れた。 1974-1975シーズンには、派手なドン・チェリー (Don Cherry) が引退し、新コーチに就任した。チェリーの指揮下にあった時代のブルーインズは、依然としてエンフォーサー(ラフプレーヤー)がたくさんおり、また、技巧者グレッグ・シェパード (Gregg Sheppard)、荒くれ者のテリー・オライリー (Terry O'Reilly)や点取り屋の Peter McNab らに支えられ、いわゆる"Lunch Pail A.C." として他チームからは恐れられた。 しかし、ボビー・オアの場合はそうはいかなかった。。1975-1976シーズン終了後チームを去り、シカゴ・ブラックホークスに移籍した。そして、数度のひざの手術を経て1979年に引退した。 ブルーインズは、オアを失ったが、シーズン初期の電撃トレードによってニューヨーク・レンジャースから Jean Ratelle とともに偉大なブルーライナー、ブラッド・パーク (Brad Park) を獲得し(このトレードは、フィル・エスポジトのレンジャース移籍を見越したものであった。)、プレイオフ準決勝に進出したが、フィラデルフィア・フライヤーズに敗れ去った。 1977年には、Cheevers が WHA からチームに再入団を果し、ブルーインズは準決勝でフライヤーズを下すが、決勝ではモントリオール・カナディアンズに敗退した。1978年にも、これと同様の展開が繰り返された。 1978-1979シーズンの準決勝、対モントリオール・カナディアンズ戦ではついに、コーチ、チェリーの無策ぶりが露呈することとなった。天王山の第7戦、1点差でリードしていたブルーインズは、第3ピリオドの後半でメンバーオーバー(Too many men on the Ice)の初歩的な反則を犯してしまう。キルプレーとなったブルーインズは、同点ゴールを決められ、さらに延長戦で敗北した。
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