電撃トレード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:57 UTC 版)
ところが、期限切れ直前の1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表。阪神は最終的に金子の要望を受け入れることとなった。 江川は早朝に小山市の自宅を車で出発。小津とスカウトの小林が午前に飛行機で大阪から上京し、正午に東京・銀座の連盟事務所にて鈴木と会談。小津は江川と午後3時から東京グランドホテルにて入団交渉を行い、江川は阪神との契約に同意。小津と江川がこの後同ホテルにて記者会見し、小津は江川と契約した理由について「鈴木会長が"阪神に迷惑はかけない。コミッショナーと私が責任を持つ"といったので江川との契約に踏み切った」とし。さらに「今回の事件の原因は野球協約の不備にある」との見解を明らかにした。小津はこの後、連盟事務所に赴き、江川の支配下選手の登録申請を行い鈴木は受理。午後5時、セは「阪神・江川」を公示した。 小津はこの後、東京・大手町の読売新聞本社にある巨人の球団事務所を訪れ、契約を結んだ江川とのトレードの交渉に入り、交換要員を小林とすることで合意した。巨人ナインは春季キャンプ地である宮崎へ移動するため羽田空港に集合していたが、小林は正午、巨人の球団関係者に呼び止められ紀尾井町のホテル・ニューオータニに呼ばれた。ここで長谷川から阪神と契約した江川との交換トレードを説得され、最終的に同意した。 巨人と阪神は日付が変わった2月1日午前0時17分より長谷川と小津が東京・大手町の読売新聞本社にて江川と小林のトレードを正式に発表。小林は午前0時40分から同社8階にて記者会見し、「結論からいえば阪神にお世話になることになりました。その大きな理由は、野球が好きで、これからもずっとやっていきたいと思うからです。阪神の人たちに強く望まれていくんだから精いっぱいやりたい気持ちでいっぱいです」などと語った。 一方江川は2月1日、正午から平河町の船田事務所にて記者会見し、「興奮しないでやりましょう」と切り出した上で、「僕は一貫して人に迷惑をかけないという信念でやってきたつもりだが、結果的には小林さんとのトレードという形になった。しかし、小林さんの阪神へ移籍する立派な記者会見を聞いたりして、非常に感謝している。いつか小林さんに追いつけるようがんばりたい」、などと語った。 これによって江川は念願の巨人入りを果たしたが、巨人と江川は世論やマスコミの激しい批判を受けた。また「(野球協約に違反する)開幕前のトレードはしない」と発言していながら、結局はその開幕前のトレードを決定した阪神の球団社長の小津も強い批判を受けることになった。 球界内外から江川と小林の野球協約違反となる新人選手の開幕前のトレードには批判が高まり、協約に則りトレードは開幕後とするべきとの反対意見が出た。2月8日のプロ野球実行委員会に置いて、金子は「強い要望」を全面撤回。小林と江川のトレードについて、協約違反になるため白紙撤回し、改めて小林の阪神への移籍は認め、江川の移籍は開幕日まで凍結することを決定。巨人からは長谷川が出席し、一連の騒動を謝罪。江川の公式戦出場は開幕から2カ月自粛することと表明。金子は騒動の責任を取りコミッショナーを辞任。辞任の際、後任にふさわしい人物像を聞かれ「法曹関係者がいい」と答えた。 10日、セ・リーグは巨人の球団代表の長谷川に対し戒告と制裁金10万円、阪神の球団社長の小津に対し注意の処分を科したと発表した。
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