アラリック1世とローマ略奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:27 UTC 版)
「ホノリウス」の記事における「アラリック1世とローマ略奪」の解説
「ローマ略奪 (410年)」も参照 「イタリアの守護者」と称されたスティリコの処刑によってイタリアの人々、特にフォエデラティとしてローマ市に居住を認められていた蛮族出身者たちに動揺が広がった。市民の反乱を恐れたホノリウスとオリュンピウスは、人質として差し出されていた蛮族の妻子を見せしめとして殺してみせることで対策とした。409年にはテオドシウス1世の姪で養女でもあったスティリコの妻セレナも処刑されている。しかし、このような方法で人々の不満を収めることができるはずもなく、およそ3万人の蛮族出身者が西ゴート族のアラリック1世のもとへ逃亡し、卑劣な皇帝に対する報復の指揮を執るようアラリックに懇願した。アラリックは長年スティリコと争った仲であったが、東の宮廷によって未払いとなっている給金を西の宮廷が肩代わりするという条件で408年にスティリコと講和していた。しかし、スティリコが処刑されて以降、給金の支払いがホノリウスによって停止されていた。 アラリックは彼を慕って逃れてきた人々を連れてローマを包囲(第1回ローマ包囲)し、フォエデラティとして帝国内に住む人々の身の安全を保障するよう求めた。ローマとの交渉では元老院によって多額の賠償金が支払われ、奴隷とされていた人質4万人が解放された。引き続きアラリックはラヴェンナにあるホノリウスの宮廷とも交渉を行ったが、ホノリウスからの返答はアラリックに対する侮辱と挑発の手紙だった。アラリックは元老院を介して宮廷との交渉を有利に進めようと考え、再びローマを包囲(第2回ローマ包囲)した。アラリックはイタリアの諸市に絶えず講和の申し込みを再三提出し、皇帝が講和に応じることが人々にとっていかに有益であるかを力説した。409年、元老院はホノリウスの皇帝資格を停止し、帝国の首都長官プリスクス・アッタルスをローマ皇帝として選出した。旧都メディオラヌムを含むイタリアの諸市がホノリウスの廃位とプリスクス・アッタルスへの支持を表明した。ホノリウスはプリスクス・アッタルスを共同皇帝として認める条件での講和を申し入れたが、プリスクス・アッタルスは講和には応じなかった。しかし、ローマの人々がプリスクス・アッタルスを担いでギリシア出身のホノリウスへの敵意を剥きだしにするようになると、あくまでホノリウスの宮廷とも講和を望んでいたアラリックによってプリスクス・アッタルスは廃位された。アラリックはホノリウスに帝位を返却することを約束し、ホノリウスとの会談の場が設けられた。アラリックは約束通り会談に赴いたが、ホノリウスは会談の地に一軍を差し向け、アラリックを急襲した。アラリックはホノリウスの卑劣な裏切りに失望し、ホノリウスとの交渉を断念し、三たびローマを包囲(第3回ローマ包囲)した。元老院は特使を派遣して講和のために賠償金を支払うよう皇帝に要請したが、これをラヴェンナの宮廷は拒絶した。ついにはアラリックも平和的解決を断念し、410年8月24日、サラリア門からローマ市内に雪崩れ込み、3日間に渡ってローマで略奪を働いた。 この時のホノリウスの反応には以下の説話がある。 当時ホノリウスは鶏を飼う事を趣味としており、その鶏の名前を「ローマ」と名付けていた。ローマ陥落の際にホノリウスは使者から「ローマが奪われた」という知らせを受けたが、彼は自分の鶏「ローマ」がまだここにいて生きているのにと不思議に思った。そしてその「ローマ」が鶏の名ではなく、首都ローマの事だと使者が説明して事態が納得できたと言う。 この説話をエドワード・ギボンは信じられる話ではないとしているが、プロコピオスはこのような話があるほどこの皇帝は愚かだったと記している。
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